2014年2月11日火曜日

禍津日原総督府

禍津日原総督府
 東京府と北武県(星川領)の「国境地帯」に広がる、禍津日原特別行政区を管轄する自治政府。旧称は「クレーター復興庁」。

 「総督府」とは本来、本国(宗主国)が植民地に設置する役所を指すが、七月革命後の日本帝国においては、戦災で壊滅した地域を復興するために置かれた自治政府を意味する。国内に複数存在するが、最も有名なのが禍津日原総督府である。

 七月革命による日本帝国の建国後、帝位をめぐって雲母日女・西宮堯彦の姉弟が対立し、一時は武力衝突寸前にまで拡大する騒動となった(光復元年の政変)。この権力闘争に勝利し、光復帝として即位した雲母日女は、東京郊外の禍津日原(外東京コミューン)にクレーター復興庁を設置し、西宮を長官に任命した。しかし、禍津日原の復興は絶望的だと言われており、これは事実上の「流刑」に等しかった。

 西宮はこの命令を潔く受け入れ、日共時代からの知己である鷹司智子・落合航・太田愛らと共に禍津日原へと向かった。そこには、荒廃した大地を日共残党などの犯罪者が跳梁跋扈する、地獄絵図のような空間が広がっていた。西宮はこれらの勢力を平定・懐柔しつつ都市機能の再建を進め、その過程で出会った浪人 八洲精士郎の助力もあって、復興を着実に成功させていった。そして遂に、半官半民の教育機関「禍津日原学校」を開設できるほどの治安回復が実現した。

 こうした復興実績は、西宮への敵愾心を引きずる皇帝からも高く評価され、クレーター復興庁は禍津日原総督府への発展的改組を認められた。総督に就任した西宮は、軍事統帥権を含む高度な自治権を獲得し、この地で天下国家を支えようと尽力する。かねてより自前の私兵集団を養成していた彼は、北方に対峙する星川軍との衝突や、東京でのクーデターといった非常事態を想定し、陸軍だけでなく航空部隊(戦闘機)や特務機関をも配備した禍津日原基地を建設した。これは後に、光復21年の八月事変で多大な役割を果たす事になる。

 歴史的には、昭和時代に元化天皇(西宮の父)や落合翔(航の父)らが所属していた海軍条約派(海軍穏健派)グループを起源としており、旧海軍閥や日系人出身者が比較的多い。七月革命で活躍した落合のラズール隊、それを改組して十三宮勇が編成したサフィルス隊のほか、西宮自身もクリスタロス隊として戦闘機を操る事ができ、それを知る人からは「海なき内陸の海軍航空隊」などと呼ばれている。

 西宮が聖徳帝に即位した後は、基地司令官の落合が後継の総督を務めた。

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