歴史

 ここでは、「スライダーの会」の劇中世界における年表を掲載致します。但し、これはあくまで初期設定(いわゆる「正史」)であり、作者・作品によってはこの通りにならない場合もあります。

未来30年・光復元年
七月革命

ダウンフォール作戦

オリンピック作戦

コロネット作戦

関東大長征

宇都宮決戦

第一次埼京戦争

光復15年
第二次埼京戦争 岩付城の戦い
池村ヒロイチ
武蔵県岩付市を主戦場とした、日本帝国星川共和国の戦闘。クルド戦争への出征により、帝国の後ろ盾である在日米軍が「がら空き」となった関東平野では、埼京両国の緊張が高まった。
戦端は川口浦和方面で開かれたが、帝国は大宮と並ぶ敵の軍事拠点たる岩付への奇襲攻撃を作戦し、敵中突破に定評のある太田愛がその任務に抜擢された。星川方も来襲を予測し、上杉橄欖の督戦下で防御を固めたが、正面突撃を試みる太田隊の戦力を過小評価した事が敗因となり、落城を余儀なくされた。
帝国は岩付割譲を条件に講和を図ったが、星川はこれを認めず岩付奪還のため総攻撃を下知。これ以上の戦線拡大を回避したい帝国は、岩付返還だけでなく、太田隊の身柄を星川に引き渡す事で停戦に持ち込んだが、見返りに浦和市の一部を租借する事にも成功した。

光復17年
河越城の戦い
紅蓮つづり
武蔵県河越市において発生した、星川共和国による日共残党の鎮圧作戦。
 禍津日原での度重なる討伐によって追い詰められた日共残党は、日本帝国(東京政府)と対立関係にある星川軍閥に亡命し、秩父山地にアジトを築いていた。しかし、天河和茂ら急進派は旧日共政府を裏切った星川に対しても公然と敵対的行動を取ったため、当初は「敵の敵は味方」として黙認していた大宮政府も弾圧に転じた(秩父事件)。
 包囲網と冬季の極寒に苦しんだ残党は、入間川を渡って河越城下町の襲撃・略奪を決行した。しかし、彼らの動向は上杉橄欖の秘密警察によって事前に予測されており、入間川と河越城の二段構えに配置された星川軍により、実行犯の多くが殺害・逮捕された。
 拘束された被疑者の身辺を取り調べた結果、日共残党には極左思想と無関係な者も含まれている事が明らかになった。星川政府は容赦なく「銃殺刑」を標榜したが、実際には犯行動機を情状酌量して、寛大な処置を下したようである。
 しかし、日共残党は決して壊滅したわけではなく、彼らの勢力はなおも強固に存在し、翌年の上野戦争で東京を混乱に陥れる事となる。

浦和騒動

光復18年
上野戦争・不忍池の戦い

光復20年
第三次埼京戦争

光復21年
屋代島攻防戦
池村ヒロイチ
ケリー・村中讃爾
瀬戸内海 屋代島(周防大島)の領有権を巡る、日本帝国畿内軍閥(大日本皇国北朝)の争奪戦。光復停戦協定の失効により、両国は全面戦争を迎える事となったが、西南日本における最初の武力衝突が屋代島であった。
 帝国側では九州鎮台とアメリカ連邦が、畿内方には山陽都督府や中華ソビエト共和国などが参戦・支援した。

東京湾要塞の戦い

那須塩原の戦い

会津戦争

天女山の戦い

畿内決戦

八月事変

第四次埼京戦争 禍津日原会戦
水菜
 日本帝国政府が葉山円明ら共産主義者に占領された事を察知した西宮堯彦は、禍津日原総督府を日本帝国臨時政府に改組し、星川初と協力して東京奪還・クーデター討伐の兵を挙げた。これに対し、葉山は皇帝及び首相の名の下で、東京正規軍を動員した。西宮・星川連合軍(北軍)と東京政府軍(南軍)は、埼京国境地帯である禍津日原で衝突した。葉山は東京で総指揮を採っていたと思われるが、この画像に写っているように、彼自身も禍津日原に着陣していたという説もある。

ユマ
 大軍勢同士が正面衝突する総力戦となった第四次埼京戦争においては、戦闘区域内にある禍津日原第四学校の教職員や学生までもが戦闘に参加していた。例えば、星川初の長女である星川結が、浦和連隊を率いて戦場を中央突破したとの逸話は有名である。また、第三勢力として独自の行動を行なっていた会津軍閥は、禍津日原では反星川の立場から東京軍として参戦し、泰邦清継の長女である清子がこれを率いていたと言われる。

池村ヒロイチ池村ヒロイチ
 兵力は東京軍が圧倒的であり、陸軍大国の名高い星川軍も苦戦を強いられる。しかし、東京側にはこの作戦の真意に疑問を抱く将兵が少なからずおり、星川軍を一時的に後退させる事はできても、結局は星川お得意の塹壕射撃で返り討ちにされるなど、士気はあまり高くなかった。しかも、東京の勝利を約束するはずだった高瀬川航二郎 将軍の大規模増援部隊は、それを先導する田中正弘 将軍が星川に内応していたため、禍津日原に着陣しても交戦許可が下りず、戦闘に参加する事ができなかった。更に、事実上の参謀である大牧実葉が連合軍に攻囲され、指揮系統を失った東京軍は総崩れとなる。こうした中、葉山政権による幽閉から脱獄した光復帝雲母日女が停戦を命じ、東京軍・星川軍は禍津日原から撤兵した。

天皇海山の戦い

光復22年
東アジア地中海戦争

光復23年・聖徳元年
奥州合戦

上杉橄欖襲撃事件

第五次埼京戦争・大宮決戦

銚子追討戦

共和元年
共和偃武

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