2015年10月28日水曜日

八洲与一実行

「世ノ錯乱ヲ望ミ、世ノ嘆キヲ愉シム」

 南北戦争や戊辰戦争に参陣したと云われる、伝承上の武士。俗名、九戸与一郎実行(さねつら)。

  • この人物は陸奥・蝦夷島との縁が深いため、便宜上「日本人民共和国」に分類されていますが、本来は無関係です。

第二次黒船来航(安政元年)
 元来は武士身分だが、冷害に苦しむ奥州の農村出身で、父親を殺害して放浪したとされる。ペリー艦隊の荷積み従事中に気絶し、そのままアメリカ合州国に渡るという数奇な運命を辿る。

南北戦争(文久元年)
 南部州に暮らしていた際に南北戦争が勃発し、現地のチェロキー族インディアンと共にアメリカ連合国(南軍)の騎兵として参戦。ただでさえ人種差別の根強い地域であり、当然ながら境遇も良くなかったが、米国での経験を機に、人間同士の闘争に自らの存在意義を見出す。

鳥羽伏見の戦い(明治元年)
 日本への帰国を果たした後、当時の幕府陸軍に入隊、この頃から「八洲与一」と称する。南北戦争のような内乱が日本でも興る事を渇望していたが、その通りに戊辰の役が実現。「狼士隊」と名付けた騎兵部隊を率いて鳥羽伏見に参戦するが、精神主義的な会津仙台などの奥羽越列藩同盟とは価値観が全く合わず、東北では友軍の惨敗を寧ろ愉しんですらいた。

箱館戦争(明治2年)
 榎本武揚土方歳三大鳥圭介に属して蝦夷島に逃れ、明治政府軍との最終決戦に臨む。五稜郭での奮戦は官軍を戦慄させたが、土方が討たれて勝敗が決すると、敵陣に突撃して消息を絶った。その後の動向は不明だが、好戦的な性格から、北海道開拓西南の役(明治10年)に際して一部で生存説が囁かれた。何人かの女性と縁があったようだが、正妻の名は「森田千」と伝わる。家督を継承した子孫は代々「与一」を襲名したが、21世紀前半頃の棟梁の目される八洲精士郎は、何らかの事情により歴代には数えられなかった。

後世の評価

  • 「儒教や国家神道によって『武士道』が美化される中で、元来の武士とは何たるかを端的に示した点において、彼の実際の言動に対する倫理的評価は兎も角、その存在に一定の歴史的意義を見出す事を不可能と断ずるには躊躇を覚える」(地球出版『あの日見た武士の名前を私達はまだ知らない』より)
  • 「南北戦争に始まり、鳥羽伏見から箱館に至るまで、彼が騎兵を指揮した合戦は、いずれも自軍敗北という結果に終わっている。敗軍の将が兵(つわもの)を語るのは、まさに戦前の陸海軍から現代の霞ヶ関にまで連綿と続く『失敗と無責任の系譜』にほかならない。同家に連なる方々への無礼を覚悟で申し上げるならば、結局のところ八洲与一とは『戦争屋』の域を出ていなかったのではないかと評せざるを得ない」(地球出版『逆説の敷島史 幕末錯乱篇』より)

スライダーの会『Planet Blue』連作に於ける「八洲与一」
 旧会津藩士の泰邦家(松平氏)や、津軽半島をルーツと信ずる十三宮家(安東氏)などは、八洲与一に関する断片的な伝承を語り継いだが、彼の本姓が甲斐源氏「奥州南部氏」に由来する事、これに米国で「南部連合」に所属した経歴が重なり、八洲とは「『南部』の末裔・亡霊」であると喧伝した。そのため現在でも、八洲の通称として「南部」の語を用いる事例が見られる。しかし厳密には、八洲の先祖は南部氏の中でも本宗家(盛岡藩)に叛いて没落した支族であり、与一自身も大名とは無縁の貧しい家に生まれたと考えられている。

残影
 若き日の樹下進ソビエト第三帝国の二重スパイだったとされる)がドイツに赴任していた頃、何故かベルリンの優生学者から「ヤシマのDNA」に関する噂を耳にした。それから時は過ぎ、後にネオナチ指導者アーニャと取引した際に、その事を思い出したが、時既に遅く、第二次大戦と冷戦で変貌したドイツには何も残されていなかった。「この地球上で只一人、私と対等に語り合うに足る『日本人』がいたとするならば、それは皮肉な事にも、一部のオカルティスト達から『信仰』を集めている、19世紀後半の『物の怪』なのかも知れない」(死後公開『樹下進研究ノート』より)

  • この記事は、八幡景綱氏が著作権を有する小説の登場人物「八洲与一」の設定を、十三宮顕が自作品の世界観に基づいて再構成した物です。


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