2015年10月11日日曜日

長野逸平

「愛する『祖国』を求む者」

 日本國民軍関東鎮台少佐、軍部革新派の指導者として青年将校に影響を与えた。

渋谷事変(光復20年)・甲信進駐(21年)
 士官学校でプロペラ機の効率化・無人化を研究し、琉球諸島派遣時には軍の新型ガンシップ試験飛行にも参加。祖國の「半独立」状態に強い義憤を抱く理想家で、「國家改造」「錦旗革命」を呼号し、軍の独断開戦やクーデター未遂事件に度々連判したが、遠野衛葉山円明ら宮中コミュニストの朝廷工作により処罰を免れたため、(本来は左翼嫌いだが)彼らのグループに接近。一貫して尊皇派を自任したが、欧化主義的な女帝雲母日女を本心では忌避していたらしい。渋谷大隊配属時には、七宝院学園を警備する任にありながら過激派のテロルを防止できず、翌年に甲信進駐軍を率いた際も、現地の國人に対する部下達の粗暴な振舞が目立ち、七宝院衆徒の強訴を招くなど、何故か七宝院との悪縁が多い。

八月事変
 草壁錠川口秀和高山照道らと共に自軍閥の政治結社化を推進したが、八月事変に際して(高山の献策で)葉山政権との臨時統一戦線を模索したため、反共的な主流派と分裂。葉山方として禍津日原会戦に出陣し、西宮・星川連合軍と戦い、落合航の離陸を妨害したり、その腹癒せに戦車(高価)を爆破されたりした(参戦を唆した高山は、いつの間にかいなくなっていた)。公式記録では、真相を知らぬまま偽命令で動員された事になっているが、実際には天河和茂大牧実葉泰邦清子との軍議に出席するなど、積極的に謀叛一件を支援した疑いもある。しかし、テロリストの分際で軍人を見下す天河の作戦指揮に反撥し、命令系統を無視して勝手に戦闘を進めた上に、「天河はどこの武官か?皇帝・首相は何をしている?」と問い質すなど、連合軍を利敵し、クーデターの事実を暴露しかねない言動も行っていた。いずれにせよ、一方ではクーデター勢力に加担した側面を否定できないものの、他方では田中正弘など傍観・不参戦を決め込む将兵も多い中、長野隊・泰邦隊が星川軍の猛攻を禍津日原で足止めした結果、「クーデター鎮圧」を口実に東京占領を目論む星川初の野望を阻止できたという功績も大きく、戦後の軍事裁判に出廷するも無罪。

総武戦争(光復23年・聖徳元年)
 吉野政権下では九州閥・空軍派に圧せられていたが、西宮堯彦の践祚(聖徳親政)により近衛師団に返り咲き、房総半島攻略にも参陣。特に銚子屏風ヶ浦の決戦において、叛乱軍が駆使する無人兵器や風力発電所の制圧に当たった。

共和偃武(共和元年)
 共和制樹立後は王政復古運動に邁進し、退位・出家した聖徳法皇や旧畿内軍閥の近衛秀國(豊國天皇)を大統領候補に担ごうと試みたが、平安京への首都移転公約が条件だと言われ、調整は難航。そんな折、旧星川閥の政権掌握をしぶとく画策していた上杉橄欖(傀儡帝擁立による「関東管領」復活を夢想)に斡旋され、雲母日女法王の重祚政略に関与。かつては國体護持のため命懸けで戦った星川と、今度は同じ目的の為に手を結ぶ事となった。

  • この記事は、八幡景綱氏が著作権を有する小説の登場人物「長野逸平」の設定を、十三宮顕が自作品の世界観に基づいて再構成した物です。

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