2014年12月31日水曜日

木内亮吾

 東京軍将校。常陸(旧茨城)県出身者。陸軍歩兵大尉。選抜歩兵中隊を率いる。独身、恋愛経験に乏しい。首にスカーフを巻いている。

  エリート将校として将来をそれなりに望まれている。中産階級から上がって来たが、少年時代には貧困層の同輩から暴力を受け、進学先では上流階級(アメリカとの交易で利益を得た、所謂アメリカンスクール)から執拗な虐めを受けた。首筋をスカーフで覆うのは、首筋にある根性焼きの痕を隠すため。焦りや怒りを覚えると、時折首筋に熱さと痛みを感じるなど吹っ切れていない。軍内では明るく振る舞っているが、内心では他人を信用出来ない。しかし、本心から人を嫌いになれない。

 長周を巡る九州軍と宇喜多軍の争いに際して、援軍として九州に派遣された機械化歩兵師団の選抜歩兵中隊長に任じられた。大島奪還を計る第一次反攻では、攻め寄せた宇喜多軍に紛れていたマスードに打ち倒された。命に別状なかったが、以後僅かに首筋の痛みが続き、このためにマスードへ執着心を持つ。

 第一次反攻に何とか耐えきった在大島九州軍の督戦に訪れた吉野菫を狙ってマスードが遣わした、「顔無し」の狙撃から彼女を身を挺して守る功績を挙げ、追撃の末に「顔無し」と海岸線で対峙した初めての人物となる。しかし、「顔無し」を迎えに来ていた特殊潜航艇(通称「磯女」)の内にあって、宇喜多の指示でクライアント(大坂)に信用させるため臨時に協力をしていた、とある教会の修道女(らしき人物)に強制武装解除され取り逃がした。

 小倉口の戦いでは、諫早が率いる混成旅団の指揮下中隊長として奮闘。絶望的な戦いの中、陶山の部隊が来るまで持ち堪えた。この戦いで腕を失う重傷を負った籠手田将軍を援護し後退させ、陣地にて督戦していたために八洲余一に捕食されかけた吉野菫を退却させる間、余一を制圧火力でどうにか抑制し撤退までの時間を稼いだ。数々の武功ゆえに勲章を授かるが、マスードとの戦い以来首筋の痛みが消えない事で精神的に苦しみ、次第に暴走気味となる。結果的に長門本土での戦いで逃げ出した友軍兵を銃撃したため、軍法会議で処罰され予備役編入となる。

 失意の内に関東へ戻る最中、九州鎮台での講和交渉に失敗していた須崎優和と港で出会い、会話(訪問販売)の最中に講和に反対する大坂の三好秀俊からの刺客 城井宗房の襲撃を受け両人交戦しつつ逃走。須崎司祭を迎えに来た宇喜多側の手勢に保護され、なし崩し的に捕虜になる。宇喜多によって懐柔された鎮台和平派の働きかけもあり、木内は以後須崎司祭の九州側の警護役として宇喜多の人質になる。対して反和平派の鎮台武官は、無意識に悪心の湧いた蓮池夏希の扇動で安芸太田での鎮台兵狙撃事件を口実に軍を動かし、長門を完全に陥落させた。

 殺されてもおかしくない立場となった木内は、十三宮教会の中立性を頼るように勧めた宇喜多の計らいによって教会に「亡命」する。なおも和平を探る須崎司祭を除こうと中共顧問団の工作員を差し向けた三好秀俊から、木内と須崎を守るためにマスードらアラブ傭兵が教会借り受け施設に入り、木内はかつて戦いそして最初に須崎を殺そうとしていながら今守る役目にあるマスードと対峙し、遂に自らの「傷」を塞ぐ。

 県令の死後に始まった石州口須佐の戦い、続く益田須子高津川の戦いで全体指揮を採った「西海の鎮撫使」浮田郷家(清真弟)陸軍大将の傍らで戦の顛末を見届けた。鎮台武官を抑え込んだ吉野がこれに応じ、間もなく講和は締結。

 木内は役割を終えたが、締結後のマスードによる吉野襲撃の責任を回避しようとする宇喜多勢の保身により、三好方を装った刺客に狙撃され重傷。公式記録では「和平に尽力した木内を逆恨みした畿内強硬派によって暗殺された」となり、宇喜多により顔無しに使わせていた幾つかの偽名を与えられて十三宮教会の伝手で東京・九州側から逃げおおせた。

 大坂の方広院が死に、三好秀俊が失脚後に服毒「自決」(備前茶で)。八月事変平泉の戦い東京錯乱(青鳥政権の成立と崩壊)を経て、やっと公的に解放された木内は本名に戻り修道士となった。後に自著『西海之役』を記し、その売上を死した両軍の兵の弔いに充てた。

 なお、木内から過去の虐めの加害者達の名を宇喜多は聞かされているが、全員が「食中毒」で死亡するという不思議な最期を遂げている。また、木内を重体にまでしたのは「いや、丈夫そうだから」「若いうちは色んな経験をした方がいい」という理由。

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