2014年10月13日月曜日

七宝院夜宵

 七宝院寺座主にして、学校法人七宝院学園の創立者。後に甲斐・信濃県令。

 大衆抑圧の無明時代にあって、男勝りの心身と指導力を持つ年長の尼僧。「国と民が七つの宝石の如く輝ける世」の到来を祈り、彼女とその山寺は「七宝院」と名付けられた。主として山梨・長野県境の八ヶ岳などに潜伏し、武装した僧兵を従えて日共軍とのゲリラ戦を展開し、領民達を守り抜いた。狂い乱れ果てた天下を変えるため、荒廃した国の形をあるべき姿に改革し、一切衆生とりわけ次代を担う人間の心を浄化しなければならないと決意する。

 来たるべき時に備え、西宮堯彦鷹司智子泰邦清継太田愛(岩月愛)らを匿い、果たして訪れた光復元年の七月革命で彼らの挙兵を支援し、自身も甲信地方から日共軍を駆逐した。しかし、新たに成立した日本帝国東京政府は西宮親王を追放した上に、米国で西洋思想に染まった日本国民軍には伝統的な農山村を「未開民族」と見下す傾向があり、「解放」と称して甲信住民を力尽くで従わせようとしたため、七宝院との衝突が生じた(光復強訴事件)。政府は国際社会からの批判を避けるため、甲信地方への軍進駐を見送り、法的には甲斐県・信濃県として日本帝国東海州に属しつつも、実質的には領民の自治によって運営される「半軍閥」となった。なお、「東側後進国Japan」を西側文明国に啓蒙しようと考える新生東京軍と、日共期の貧しい生活に不満ながらも適応していた現地住民との摩擦は、東北出羽地方でも同様の事態が発生したが、雲母日女や太田愛の計らいで事なきを得た。

 その後、かねての悲願であった仏教系教育機関の創立を目指し、寺子屋を拡充して「七宝院学園」を開設。帝国政府から学校法人として認められ、東京市渋谷区への新校舎建設も許可され、政府との関係を改善した。渋谷開校後は御堂輝(国語科)ら教職員に学校法人の経営権限を少しずつ移譲し、自らは甲信の政務に専念するようになった。

 光復21年、政府が日本列島の武力統一に舵を切ると、天賦人権・地方分権の保障を条件に甲府・長野を無血開城するが、綱紀の乱れた一部軍人の狼藉により事実上の戦闘状態に陥るという不祥事を経て、正式に東海州政府に従った(天女山の戦い)。八月事変では旧知の西宮堯彦を支持。

 聖徳元(光復23)年、最後の埼京戦争である大宮決戦が勃発すると、十三宮勇ら青鳥閥が西宮皇帝を幽閉したとの情報(後に事実である事が発覚)を拡散し、彼女らが不法に始めた義なき戦に加担してはならないと訴えたが、報復として七宝院学園が東京政府軍に包囲され、無差別攻撃を受けるという悲劇が起こった。

 武力決起をしていた頃には、神輿や神木などの偶像(信心なき者にとっても畏れ多く、迎撃しにくい)を担いで特攻する「強訴」戦術で畏怖されていた。それゆえ「仏教精神に基づく進学校」との看板とは裏腹に、不良と問題児の巣窟と化している学園の現状を嘆いても、「神輿を担いで特攻する創立者に比べたら、七宝院の餓鬼なんて可愛いものだ」と揶揄される始末であった。

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