2014年10月12日日曜日

川口秀和

 日本帝国軍東京急進派。空軍大佐、相模県座間駐屯航空団司令。アイギス党領袖。

 七月革命時に戦闘機パイロットとして従軍した。この時、遠野衛に僚機を撃墜されてはいるが、日共軍戦闘機を得意の一撃離脱戦術にて3機墜とした。なお、この直後に日共幹部と家族が乗った輸送機2機を追撃、相手が投降を宣言したにも拘らず護衛機2機もろとも撃墜した。無駄な流血を引き起こした事に落合航は激怒したが「帝国にアカは不要」「後で集団リンチになるよりマシでしょう?『武士の情け』ですよ」と死を嘲笑い、落合が更に激昂する事になった。

 熱烈な反共主義者で、転向した者も「反転者」として侮蔑していた。一族を日共の末端兵になぶり殺され、隠れ仏教徒に命懸けでアメリカに送り出された。太平洋沖まで漁船に揺られてきた後に米軍に保護され、アメリカ内の反共日系組織にて養育された。なお命の恩人の仏教徒とは再会したが、日共の拷問により五体満足と視力を奪われていた。病院で世話されているが、決して安くない治療費は川口がずっと払っている。

 浄土教一向宗(真宗)宗徒。恩人の事もあるが、アメリカにて暮らしていた日系組織の家が真宗教徒だった事が要因。

 人民共和国を引き継ぐ星川一族を危険視し、その抹殺を謀る。軍隊内右派急進党「イージス」(アイギス)の意思決定者の一人として上野戦争における無差別爆撃を敢行した。党内の同輩である高山照道が赤軍ゲリラを上野へ誘った事までは知らなかった。星河亜紀の暗殺未遂後、事態を憂慮した東京軍では粛軍が行われ、川口や高山ら「イージス」の幹部はことごとく左遷された。川口は予備役編入の憂き目にあったが、在野の右派活動家と誼を通じた事で国家社会主義者の顔をした葉山円明の知己を得て軍に復帰した。以後葉山と懇意になるが、彼の素性を知り得たために面従腹背の姿勢で利用するだけ利用しようとした。

 八月事変時には堀越碧に内通し、伊豆からの兵を座間基地に招き入れ、葉山に従うべきとする基地司令達を捕らえて実権を掌握。葉山方に加勢した会津若松を空爆する総督軍爆撃機を護衛する編隊を送り出し鶴ヶ城を半壊させ泰邦家を降伏させた。しかし、葉山・日建の横死に伴い(積年の敵、江上党を討伐した)吉野菫が台頭すると、葉山派と見られて座間基地を追われた。予備役航空隊員の訓練所責任者に左遷された川口は失脚した旧日建派や急進派を集め日建派議員を推し立てたクーデターを企図するが、川口徒党の高山の密告を受け、これ以上の政権動揺を危険視した西宮総督腹心鷹司氏より密命を受けた落合・八洲の暗殺者が会合帰りのクーデター派を各々襲い、いずれも殺害された。川口は旧知の高山に連れ出された浜名湖にて睡眠薬を飲まされ、暗殺された。

 西宮総督が失脚し共和国が成立する時、この事件についての疑惑が浮上し共和派の攻撃材料になった。「証人」になりうる高山が鞍替えの果てに七宝院包囲戦で投石を受け戦死し、共和主義の高揚を受けたため政治的痛手になった。なお、証拠不十分として不起訴処理されている。西宮による名誉毀損訴訟も原告勝訴となっており、社会的に川口の死は「事故による溺死」である。

 本質的には情け深い性格だが、家族を弄ばれた心の傷は遂に治らず、恩人の無惨な姿も自責の念を深める一因になった。意外と内向的で、他人と話すのが正直好きではない。一番苦手なのは「質問」。ただでさえ話すのが苦手なのに「自分に欠けている事を他人に披露し挙げ句教えを乞うなんて、正気ではない!」との事。日共には近所の者から密告されている辛く衝撃的な経験から、他人を信用できない。

 精士郎曰く「(初代)与一がいれば火薬庫にはなった」。

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