日本人民共和国に盲従するわけでも叛逆するわけでもなく、ただ腐敗せる軍部に代表される世間の不正を一掃し、人民をより幸福にしたいという純粋な動機で士官を目指す。正義感が強く、軍規違反を監視する「政治将校」的な地位を望んでいたようである。
未来30年メスィドール=光復元年6月の段階では日共陸軍九州師団少尉として福岡県(後の筑紫県)に配属されていたが、隕石落下により潜伏キリシタンら反体制派が一斉蜂起し(西海の福音)、続いて在琉球米軍が上陸(オリンピック作戦)、九州は極度の混乱状態に陥る。辛うじて通信できた東京参謀本部からの「九州を放棄し、東方に転進せよ」との命令を頼りに、数台の歩兵装甲車部隊を率いて、東日本への大長征を敢行する。
九州を脱出して山陽、次いで近畿地方を陸路で横断する途上、この地域を我が物にせんとする宇喜多清真や近衛秀国らの武装勢力を目撃。参謀本部に交戦の可否を請うが、既に東京は米軍及び反体制派日本人によって陥落しており、指示を仰げなくなってしまった。
やむを得ず東進を続けるが、東海地方の多くは米軍の手に落ち、主要都市では暴徒による赤狩りが行われ、対する日共残党も反体制派を虐殺しており、北陸も不穏な情勢だという絶望的な情報が入る。進むも退くも地獄、ならば敵の眼をかいくぐって前進するのみ!旧街道の遺構を頼りに険しい日本アルプスを突破し、遂に関東入りを果たす。だが、群馬県(前橋県)にて疲労困憊の将兵達を休めようとしたところ、友軍であるはずの人民服(しかし日共国章とは異なる星マーク)を着た所属不明の部隊から攻撃を受け、やむなく応戦してその場を離れる。
- 後に彼らは、日共に反乱を起こした星川初の偵察部隊だった事が判明する。
長き撤退戦の末、テルミドール(7月)には日共臨時首都の栃木県宇都宮に到着し、ようやく一息できるはずだった。しかし、ここで最大の試練が待ち受けていた。なんと、宇都宮までもが反乱軍に占領され、東京では米帝傀儡政権「日本帝国」の建国が宣言されていた(七月革命)。日共教育では無敵の戦闘機だと教わっていたミグ29「ファルクラム」は無残な破片となって地表に散乱し、眼前では日共軍抗戦派が米軍と最期の戦いを繰り広げているが、玉砕するのも時間の問題だ。もはや自分達に、帰還すべき祖国はない。だが、一部の日共高官がソビエト ロシアの助けを求めて東北地方に逃れたとの未確認情報もある。何がなんでも生き残ってやる!戒厳令が敷かれ、銃撃が飛び交う中、藁を掴む覚悟で北上を開始した。
宇都宮を抜け、長旅の果てにたどり着いたのは旧福島県、今は会津軍閥とかいう精神右翼が支配し「岩城県」などと呼ばれていた。東京や星川との戦闘に備え、白河~郡山の幹線路で軍事演習を行っていた泰邦清継の本隊に発見され、説得を受け降伏。本来は敵にもかかわらず丁重に保護され、「反日極左思想」から転向すれば定住を認めると提案される。忠誠を誓った日本人民共和国は既に亡く、また清継が唱える「天皇を戴く社会主義」は、勤労者・農民の民生を重んずるなど共産主義本来の目的と似ている側面もあり、そのまま会津軍予備役に転属する事になった。
その後、日本列島では日共残党によるテロ、政府・軍部に取り入った共産主義者のクーデター、更にはロシア急進派と結んだ北陸奥での反乱など、日共の亡霊が跳梁跋扈したが、もはや極左に回帰する意義は見出せず、長征の戦友達と共に会津軍将校として生き抜く道を選び、少佐まで昇進したと伝わる。
前線指揮官としての実力は特筆に値し、思想的にも不穏な点は少ないが、良くも悪くも空気を読まない性格が出世を阻み、将軍や政治家には不向きと評される。旧日共軍出身者らしくやや反米的で、会津では問題ないが東京政府とは相性が良くない。
- 泰邦清子様の御言葉
「逃げてばかりの男にして、皇国陸軍の大和魂どこ吹く風。
されど生存率無駄に高きゆえ、駒としての使い道はなきにしも非ず」
晩年は一般市民として平穏に暮らしたという。小惑星衝突から七月革命収束まで、一箇月程度の期間で九州から東北まで壮絶な逃避行を繰り広げたが、その過程で関門突破に多くの偽名を使っており、正体に迫る事は難しい。ただ、「彼」の話をする時、皆少し嬉しそうな顔をしていた。それが、答えなのかも知れない。
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