2014年10月9日木曜日

宇喜多清真

或葉緯人
畿内軍閥に従う山陽軍指導者。神戸福原京に拠点を置く。かつて毛利氏と同盟して織田信長に抵抗し、関ヶ原の戦いでは石田三成と共に西軍を率いた戦国大名 宇喜多氏の末裔。「清真」という名は清真教(イスラム教)に由来し、「きよざね」または「せいしん」と読む。

 イスラム教の立場から共産主義に反対し、西アジア諸国で亡命生活を過ごす。アフガンに侵攻したソビエト ロシア軍との戦闘に参加。その際、後に国際テロ組織となる原理主義過激派の創立メンバーらと知己になり、彼らの支援下で日本のイスラム革命を目指そうと決意する。

 七月革命前後に日本へ密航し、人民解放軍との遊撃戦を経て山陽地方に勢力を広げた。この頃、関西では近衛秀国の畿内軍閥が覇を唱え、九州は吉野菫の米軍政府が掌握した。光復停戦協定の不戦条項により、畿内・九州は全面戦争こそ起こさないものの、政略によって山陽地方を切り崩す意図は明白であった。宇喜多は過激派のテロによる後方撹乱に助けられながら、両勢力の間を付和雷同し、巧みに独立を維持していた。

 しかし、光復7年に南播磨で巨大地震が起き、畿内と対峙する最前線拠点の神戸が壊滅した。絶望に暮れながら神に答えを求めていた際、長く敵対関係にあった畿内の黒幕たる近衛和泉方広院)が真っ先に復興支援を申し出て来た。畿内の財力と利権で誘惑するというあからさまな手法ではあったものの、米国の顔色を伺って山陽救援を躊躇う九州とは対照的だった。更に、畿内への強硬姿勢を主張していた同志の一人が心臓発作で急死する。こうして仲間内でも和平派が有力となり、宇喜多は畿内服属を決意する。以後、再建した神戸福原京にモスクを建て、畿内軍閥の西方を担当する事になった。

 先述の通りイスラム原理主義過激派と親交が深く、宇喜多自身もその軍事力を利用しているが、冷戦終結によって彼らの目的が「反共」から「反米」に変わり、民間人を巻き込む文字通りのテロ組織となって行く事には疑問を覚え、次第に距離を取った。そして、米国での同時多発テロ(光復13年)を機に、過激派との正式な関係はなくなったとされるが、公安筋やICPC(泰邦明子)からは今なお有力交際者と疑われている。

 21年、山陽への侵攻を開始した九州軍に対し、中共軍・イスラム義勇軍の支援を受けて戦うが、米軍から全面的にバックアップされた国民軍の力はあまりに大きく、徐々に後退を余儀なくされる。大坂湾での決戦後、八月事変が起こり、畿内軍は混乱に乗じて失地回復を目指す。しかし、神秘主義(スーフィズム)の修行も経験した宇喜多は、直感的に事態のただならぬ異変を察知し、怨霊と化した方広院を撃破して、その最期を看取った。

 天主教と神社仏閣が圧倒的に優勢な日本社会において、実質唯一のイスラム共同体を率いた人物として注目される。砂漠で駱駝に乗っている宇喜多の写真は有名で、多くの資料に掲載されているが、実はこれは鳥取砂丘で撮影されたものである。しかし、イスラム圏を何度も訪問しているのは事実で、メッカ巡礼の際はアラビア帝国の君主ハリーファ(イスラム教皇)とも会談している。テロリストと組んで軍閥を形成し、実際に戦闘を指揮した事からも分かるように、聖戦思想の持ち主ではあるが、本来は「モーセやイエスも預言者」との教義に基づき、他宗教との共存を望んでいる。

或葉緯人
liyaliya
liyaliya

0 件のコメント:

コメントを投稿