2014年10月22日水曜日

元化天皇

 旧大日本皇国最後の天皇。南朝(大覚寺統)出身と言われるが、真相は不明。

 昭和時代には海軍条約派(穏健派)の若き青年将校として知られ、軍縮による親英米協調外交支持、クーデター反対を主張。また、海軍なのに満洲防衛を重んじる北進論者であり、日本の主敵はソビエト ロシアであるとして太平洋戦争に異を唱えるなど、たいした身分でもないのに国策に口を挟む生意気な言動で軍首脳部らに警戒されていた。末期には終戦工作にも従事。

  • しかし、後述のように日本が敗戦したお陰で天皇に即位できたので、実は開戦を期待していたのではないかという説もある。なお、昭和海軍がどこまで「善玉」だったのかについては色々と論争があるが、それをこの場で語るのは「スライダーの会」の役割ではあるまい。

 その正体は、14世紀に足利氏(室町幕府)によって山城国平安京を追われ、皇位継承を北朝(持明院統)に奪われた南朝皇族一門(後南朝)の末裔とされ、600年以上の雌伏を耐え抜き、玉座に返り咲く日を待ち望んでいた。そして遂に、その時は訪れた。

 第二次大戦後、ロシアや中華ソビエト共和国は昭和天皇の戦争責任を追及して天皇制廃絶を目論むが、昭和帝を始めとする現皇室への憎悪に執着する余り、君主制そのものの永久的廃止(永世共和国)という要求を明言しなかった(GHQ右派=米国親日派の圧力で言えなかった)。右翼勢力はこれを逆手に取った苦肉の策として、南朝皇族を称する元化親王を昭和帝の後継として擁立する事によって、辛うじて国体護持を成就した。

  • その一方で、昭和帝一門の皇族は臣籍降下(皇籍離脱)を余儀なくされた。当然ながら、このような「王朝交代」に反対する人々も少なからずおり、彼らは後北朝と呼ばれた。そして、後北朝の旧皇族による復権運動が長く展開される事になった。その一人が、後に「畿内軍閥」君主となる近衛秀国(豊国天皇)である。

 践祚した元化天皇は、米国の支援で戦後復興を進め、自由主義的な日本国憲法を公布するなど改革にも取り組んだ。一方でGHQ右派と謀り、旧陸海軍を「警察予備隊」「保安隊」といった名目で温存する事に成功したが、これが後に災禍を招く。

 朝鮮戦争に代表される冷戦の激化、ロシア・中共に売国する共産主義者の勢力増大に危機感を強め、天皇が内閣総理大臣を兼任するという前代未聞の独裁政権「元化新政」を開き、国名を大日本皇国に戻すなどの復古的政策に着手し、同時に露骨なほどの極端な親米反共路線を推進した。しかし、旧陸軍統制派を始めとする軍部に対しても容赦ない粛清(コミンテルン工作員の摘発)を行った結果、左翼だけでなく右翼の一部をも敵に回してしまい、左右両極の革新勢力との戦闘に明け暮れる中で、臣民からの支持も失いつつあった。

 未来元年、悪夢は現実となり、日米同盟に反対する共産主義学生の国会議事堂占拠(安保闘争)に始まる日本革命が勃発。当初は天皇の専制を諌める市民革命としての側面を併せ持っていたが、次第に日本をロシア・中共の属国にせんとするプロレタリア革命に転化し、極左政党「輝く未来」が独裁権力を握る日本人民共和国が樹立された。

 日共政府には樹下進のように天皇処刑を主張する者も少なからず居たが、人質としての利用価値を見出した遠野衛らの提案により、東京城に幽閉される事になった。しかし、これは元化にとって予想通りの展開であり、獄中にありながらも天下を我が意のままに操るべく策を巡らしていた。日共は元化を心身共に虐待して無力化しようとするが、共産主義に洗脳しようとした洗脳係が逆に尊皇思想に目覚めてしまったり、拷問しに向かった拷問係が精神疾患を発症するといった不祥事が相次ぐ。業を煮やした遠野は、お得意の煩悩色欲戦術で「決着」を付けるべく、わざわざ全裸で誘惑にし行った。すると元化は興味を示した。だがそれは、遠野が期待していた意味においてではない。目的のため手段を選ばぬ女ほど扱い易い者はなく、折伏できればなお愉しいと思った。元化は外部からの情報が全て遮断されているにもかかわらず、日共の現状と時の国際情勢を見事に言い当ててみせた。そして、例え共産主義政権であろうとも日本は朕の国であるから、欲しければ智慧を授けてやると言う。折しも遠野は、人民を餓死させる事しか考えていないように思える樹下ら左派のやり方や、革命によって「打倒」されたはずの貴族・資本家・豪農らによる一揆がやまないどころか増加している事実、そして堕落腐敗する国際共産主義に疑問を抱いており、とりあえず服を着る事にした。

 かくして、元化の見識は日共右派から崇敬を集め、高官の私的な相談役として、遂には事実上の政権顧問として厚遇されるようになった。そして、日共に対して数多くの助言を行って採用させたが、それらは全て、やがて日共を破滅に追い込む種を巧妙に織り込んだ毒入り酒であった。そんな事も知らずに、いずれ我が身が反動革命のギロチン台に散る事を恐れた日共末期の権力者達には、元化に「赤色皇帝」として正式に元首の座に復位して欲しいと請い願う者すらいた。

 「幽閉天皇」の任を務める事三十年、遂に迎えた七月革命。隕石の雨が降り注ぎ、いつ崩落しても不思議ではない東京城の中で、色々と世話になった遠野衛、そして日共主席の滝山未来と最期の会談に臨み、冷戦終結によって爾後世界は多極化し、そこには最早、自分達旧世代の居場所がない事を語り合い、互いに別れを告げる。滝山は遠野の幇助で自決し、遠野は樹下派を壊滅させ宇都宮の空に消えた。そして元化は、愛する我が子たる雲母日女西宮堯彦ら率いる国民軍に救出された。極悪非道な独裁政権の被害者として、それを奇跡的に生き延びた偉大なる天皇として。元化は安堵した、と同時に興が醒めた。つまらない、これで終わりだと言うのか?今や誰もが朕を現人神の如く崇め、朕を籠絡せんとした面白き女や、まして朕の首を獲らんとする天晴れな男など一人もおらぬではないか。朕の筋書きが読めぬほど、日本人は盲目になっていたのか!

 元化天皇は日本帝国上皇に祭り上げられ、法的権力はなくとも再び天下の頂に立った。三十年の歳月を経ても衰えぬばかりか更なる輝きを磨く神威を以て、未だ東京政府に従わぬ星川やら会津やら畿内やらを平らげる大役を期待された。また上皇に嫌悪を覚える者も、元化ならば間違いなく、治天の君として懲りずに院政を開くだろうと戦慄した。しかし、間もなく仏門に出家して法皇となり、日共犠牲者の慰霊に専修して政治から離れた。

 帝位を巡って争った雲母日女と西宮堯彦の和解を願っていたとされるが、本心では雲母日女の西洋気触れにして奢侈な振る舞いを嫌っており(一説には「あれは朕の子ではない」などと陰口を語っていた)、それが出家の一因になったとも言われる。一方、堯彦とは良くも悪くも瓜二つに似ているが、元化のほうが謀将気質で悪人面だと評される事が多い。

 晩年には、自らの危篤によって朝野が自粛状態に陥り、せっかく軌道に乗り始めた経済発展が止まってしまう事を懸念し、万が一の折には葬式代わりに景気良く花火を打ち上げ、盛大にお祭り騒ぎして朕の涅槃を祝うよう侍従らに命じていたという。意外にも俗世への未練はなかったらしく、武蔵本門寺(東京市大森区)にて唱題の修行中に崩御した。

 極右と極左を上手に使い分け、双方に春の夜の夢を謳歌させた上で共倒れさせる事で、両極端に混迷する日本イデオロギーに均衡をもたらし、結果として帝室の権威と自由主義を21世紀にまで残す事に成功した。それゆえ、戦後日本を陰に陽に操った恐るべき暗君として、政治的立場を問わず今なお多くの人々に畏怖されている。殊に後南朝崇敬者からは、元化帝を神として祀る「元化神宮」創建が請願され、後に皇帝となった堯彦が実現を目指したものの、政府が国家事業として取り組むには元化治世の功罪評価や国教会との政教関係といった面倒な課題があり、吉野首相や軍部青鳥閥の反対で未完に終わった。結局、民間宗教法人という形で元化神宮が落成した時、皮肉にも日本は共和国になってしまっていたが、天皇家の血統は京都に存続し、懸案であった後北朝との両統迭立も成った。

 さてこの結末は、日本列島を巻き込む壮大な博打に興じた元化天皇にとって、果たして「勝ち」だったのか?その答えは、賽を投げた彼自身にしか分かるまい。そして、再び賽が投げられる日を心待ちにしているに違いない。

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