2016年8月14日日曜日

山陰山陽



 薄暗い寝室の壁に、二つの人影がロウソクの傾きに沿って揺れ映っていた。

「久しぶり。」

一人は煙草を灰皿に押し付けて、スクッと立ち上がった。

「ああ、何年ぶりかな。」

もう一人は背もたれの長い、古びた木製の椅子に腰掛けたまま、顔を上げて対面する者を見つめている。

「正直、長過ぎた。例え、あの日より一年しか経っておらなんだとしても、私には半世紀ばかりの様に感じられたよ。」

立ち上がったと共に椅子へ向けて歩み、椅子の前で立ち止まった。

「私も、君を待っていたよ。……会いたかった、ずっと。」

膝を付けそうな程に屈める相手の顔を見つめて、感涙は彼の自制を堪えきれなかった。

「勿論だとも!この日を、この瞬間を、待っていたのだから!」

椅子すらも包む様に、煙草臭い体を寄せて抱擁せざるを得なかった。

 離別の間に積み重ねられた想いは、只管に相手を抱き締める力となった。その感激は、他所者の思い及ぶ限りではない。

 椅子より相手を抱き締めながら、涙声を耳元に掛けた。

「友よ……、我が朋友よ……」

戦友はこうして再会した。


 東西に広く、両海洋に挟まれた山陰陽の殆どは畿内軍閥の支配下にあった。

 近畿地方を軍事制圧する近衛秀国は側近である女官近衛和泉の補佐を得ながら、苦心して山陰陽の平定を成し遂げていった。特に神戸を拠点とし、ムスリムとしてのネットワークを駆使して大いに強勢を示してきた宇喜多清真と、雲州平田に広大な館を設け「日本人の民族性を刺激」する創国神話を喧伝する事で出雲地方の支配を正当化していた出雲介尊久がそれぞれ率いる軍閥を従えるのには非常に苦労をした。一進一退の攻防を繰り返した後、劣勢を否定し難い状況を見て取った宇喜多清真は出雲介尊久自ら率いる軍勢を神戸にて出迎え、「福原血盟」と呼ばれる軍事同盟を締結し反近衛派として東京政府や星川軍閥等との関係を結ぶ等外交を展開し山陰陽の諸勢力に次々と調略を仕掛け、秀国を悩ませていた。出雲介尊久は宇喜多が結び付けた外交関係を背景に攻勢を繰り返し、勢力延伸の果てに境港を巡って遂に近衛秀国の親征と正面から激突した。猛将出雲介尊久の采配と、配下で「今趙雲」或いは山中幸盛に準えて「麒麟児」と呼ばれた山路兵介の英雄的な武勇に煽られた出雲勢は畿内軍を幾度か退け、三好秀俊等秀国配下全将軍に敗北を味合わせる大奮闘を見せた。しかし、尊久は秀国に迫った際に彼より負わされた傷を癒しに向かった玉造温泉の宿にて入浴中に前触れなく苦しみ出し、そのまま湯船の底に沈んで死んだ。後を継いだ孝久は幼く、孝久を擁した祖父盛久は倅尊久の死に憔悴しきって精彩を欠く事目に余った。境港陥落と中華ソビエトからの軍事支援を受けた畿内軍閥の攻勢により宇喜多の手による調略で従った諸将は次々と降伏し、或いは壊滅させられた。最早、盟友出雲介を統率する者は無く、宇喜多も徹底抗戦を断念。宇喜多は出雲地方へ侵攻した畿内軍との戦闘を避けて援軍要請を適当な理由で拒むと密かに畿内の有力者である近衛秀保に接近し、神戸に軍を率いる秀国を自ら迎え入れて降伏した。孤立無援となった盛久と孝久は一畑薬師に出向いた宇喜多清真の説得に応じ、宇喜多からの仲裁依頼を受けた近衛秀保の口添えを得た秀国を平田館に迎え、服属を願い出た。こうして近衛秀国の手中に山陰陽は粗方落ちる事となった。功績には礼と実を以て報いる秀国は和泉の反対を押し切って、出雲介を下すのに大きな役割を果たした宇喜多清真を山陰陽方面の大都督に任じると共に、彼に「山陰陽太政官」として地方の全権を委任した。

 結果的に宇喜多は秀国を「調略」し、山陰陽をまんまと寝取った様な物である。今尚、近衛秀国からの覚えは良く、対して側近の近衛和泉と畿内軍閥の将軍である三好秀俊は彼を公私両面で嫌っていた。一応軍閥の頂点たる秀国の覚えを盾に服属後に出仕していた大坂を引き払い神戸を改めて拠点とした宇喜多はムスリムとしての立場を明確にしてモスク建設やウラマーの招聘等の〈利益誘導〉に注力する一方、旧出雲党の将兵や官吏達の怨みの矛先を大坂の三好達へ向ける様に上手く誘導しながら、嘗て共に反抗した関係性を巧みに用いて畿内軍閥が自派に取り込めないでいる彼等を山陰陽方面軍に出仕させて山陰陽における自らの影響力を高めた。

 加えて、宇喜多は反東京の意思を明確にする秀国の意向に従い、資源開発で莫大な利益を得ていた東京方の清水賢一郎の事業を妨害する為に、ムスリムの多い資源国家から資源を多く輸入し、安価な輸入資源の国内流通量を増やして、出羽一揆以来の資金源の切り崩しに掛かった。畿内軍閥の実質的な宗主でもある中華ソビエト政府の有力派閥「太子党」とのコネクションを生かし、境港までの航路を中華海軍に守らせる等徹底したやり方は清水氏と彼等を軍事的に「保護」する役割を自負して来た東京政府に強い危機感を抱かせていた。

 宇喜多は更に山陰陽の「未回収地」の平定にも手を出し、周防長州地域への政軍両面の浸透を進めていった。益々、和泉達の不興をよそに秀国の覚えめでたくなる宇喜多だったが、彼の巧みさはその出来の良さ故により一層の脅威を敵対者達に与えてしまった。

 防長にて県令を巡る血の惨劇が起きたのは、必然であった。

……

 夜の明けぬ内に境港に接岸した大型タンカーから乗り移った貨物列車に「運搬」されて来た男達は、暫し浴びなかった陽射しに顔を顰めつつ、神戸の兵舎に収容された。

 神戸の兵舎に収容されたのは凡そ90名で、殆どが日本列島に地縁の無い者ばかりであ
った。国籍を問えば、それぞれマグレブ地方の出身者が多く、それ以外には文化的共通点を持つアラブ諸国出身者と大陸としての括りをされる南アフリカ、ローデシア、ケニア、アンゴラ等のサハラ以南のコーカソイド、ネグロイドの者達、そしてほんの僅かな日本人がいた。彼らは収容先からしてわかる様に兵士である。それも、金銭報酬を以て自他の血を流す「傭兵」という職業人達であった。別地区の兵舎にはヨーロッパ人やアジア人の傭兵達もいるが、傭兵の中でもここ神戸兵舎収容組の90人余りの者達は云わば「VIP」であった。というのも、傭兵隊長として彼らを率いる男は宇喜多の旧友なのである。

「全体、気を付けっ!」

ザッ、と一斉に音がして、すぐに止んだ。自由闊達な無法者、という認識が成される傭兵達であるが、一糸乱れず顔立ちに義務感の滲んだ男達を見て、山陰陽太政官側用人である三沢実幸は思わず息を呑んだ。90名に号令を掛けたのは、元マリ軍兵士であったトゥアレグ人の男である。長年戦ったマリ政府に一度は雇われたものの、互いに奪い合ってきた仲であるマリ兵と水を分かち合う気にはなれず、集団蜂起の折に脱走し、紆余曲折を経てこの部隊の副官となった。元々の名前は既に捨て、今は傭兵として「ターリク・ヤシーン」と名乗っている。ターリクはジブラルタルを陥落させた将軍にあやかったものだと三沢は聞いていた。

「諸君、長旅ご苦労であった。」

兵舎でのささやかな歓迎の催し、その前準備となる畏まったセレモニーというのが日本人の行動の常であった。兵舎管理を行う官吏と山陰陽の武官達を引き連れて歓迎の儀を執り行い、長旅への労いの弁を述べる将軍亀井無我、そして「同盟国」代表として軍吏の高官達と肩を並べて傭兵達の歓迎に出席した中華ソビエト共和国軍事顧問団陸軍砲兵教導官許國鋒(シュー・クオフォン)砲兵少校、副官の女性士官周子珍(チョウ・ズーヂェン)砲兵上尉、そして大坂からは近衛秀国配下の将軍で闘将として勇名を誇っていた三好秀俊と御付として元中華ソビエト共和国軍の将校で現在大坂にある士官学校「豊実館」の顧問を担っている男于龍(ユー・ロン)、公務の為欠席した宇喜多の代理として三沢実幸が出席しての催しであった。

 亀井の長々とした話を袖にして、三沢は傭兵達1人1人の顔を比べ見ていた。大坂中央では兵力への不安から傭兵や高給を餌に建設労働者や肉体丈夫な失業者達を入隊させる等の努力をしていたが、多くの兵にはどこか浮世に腕を引かれている面相があり、元赤軍出身の古参兵達に士気や覚悟の面で劣る所があったのだが、ここにいる傭兵達にはそれが無い。無感想な表情の一方で、目の奥にはある意味「ぎらついた」と言える、強い意志が秘められているようだった。僅かにいる日本人傭兵にもそれは同様である。彼らと一緒に運搬されてきた筈の日本人―と呼ぶのは少し気が引けるが―兵士は個人特有の事情でここに
は並べないが、この列に在る日本人とて決して面構えに見劣りは無いのだ。三沢は頼もしく思った。

「―敬礼っ!」

ターリクの声が三沢を物思いから呼び戻した。演説が終わって、号令と共に腕を額のところまで持ち上げる動作も様になっている傭兵達から踵を返す亀井の顔はどこか安堵した表情であり、三沢は彼との共感を初めて持った。言っては悪いが、傭兵達の敬礼は大坂の威張り散らした若手将校やここにいる〈美人将校〉の周上尉より決まっている。共感にも至るというものだ。そう三沢は思った。

 三沢による宇喜多からの祝辞や許、三好等の歓迎の弁が終わると、一行お待ちかねの(筈の)宴会場へと向かう……のだが、三沢は別件がある為に宴会場に入る余裕が無かった。ターリクを先導として兵舎内運動場に向かう傭兵達を尻目に、三沢は別件に向かおうとしたが、ふと後背より声がかかった。

「オツカレサマデシタ。」

甘い声のカタコト。周子珍である。彼女は日本語での会話自体は出来るのだが、聊か発音に難儀している所があるのに加え、日本風の社交辞令を言い馴れていない為、この点は未だカタコトから抜け出せなかった。

「まだ、変な発音ですな、上尉。」

「あれれ、まちがったかな?」

話し相手のせいか、敬語は使わない。そして、何を参考にしたのかは知らないが、彼女の日本語はくだけた表現が多い。大坂の方広院様が聞いたら、即修正物だろう。三沢は周の言葉を聞くたびにそう思った。

「なんとなく、イントネーションが違う。」

「むむむ……。うぅーん、むず、むずかしいなぁ。」

人指し指を自分の顎に当て、困った顔をする子珍の姿が三沢には微笑ましかった。出会った時から「標準語」に洋語を加えてペラペラと話し出した顧問団の許少校やそもそも日本語を覚える気の更々無い、博忠発(ボー・ヂョンファー)海軍中校に比べたら、よっぽど。

「しかし、それでも粗方は出来ていますから。」

「ほんと?やった、やった。」

目まぐるしく表情の変わる子珍だが、どうやらこれが素であるようで、当初「カマトト女」と思って何時化けの皮が剥がれるかを楽しみにしていた宇喜多・三沢の主従は、頭は良いが邪気が無く、とことん万事へ正直な周に多少ペースを乱されていた。

「最初に比べたら、雲泥の差ですよ。」

「ウンデイノサなんだ。ほう。」

「……ことわざは、これからですね。」

「ことわざだったの、ウンデイノサ?」

「ええ。『大きく差が開いている』って事です。」

「差・・・ああ、ウンデイの『差』?」

「そうです、そうです。良く出来ました。」

「よくできました!」

子珍には今度諺の辞書でもあげよう。大坂で研修を受けて以来、方広院和泉という講師の影響を強く受けていた三沢は、日本語を継承していく事に対して強い責任感を持ち始めていた。

「ところで、上尉は行かないのですか、宴会?」

「わたし、お酒きらい。」

嫌いなのは私も同じだけど、そりゃ付き合いだろう……。どうやらこの子にはそういう感覚は無いようだ。

「それに、これからお仕事あるの。」

「御仕事、ですか?」

「はい、大島をとりかえす準備。」

「……」

随分、さらっと言ってくれたな。

 周防大島奪還作戦。これは大島の陥落直後から山陰陽征長軍司令部で練られてきた作戦計画であったが、大坂が当初難色を示していた為に一旦暗礁に乗り上げていた。

「……大坂からの依頼?」

「? それは知らない。」

思わず聞いてしまったが、子珍は恐らく知らない筈だ。三沢は思った。宇喜多はあくまで自軍での大島侵攻を狙っていたのであり、そこへ中華顧問を関わらせるつもりは無かったのである。来日当初とは打って変わって最近人が穏やかになった許は顧問団が属する大坂との関係を密にしている為、内々に別儀が下りたのであろう。慎重な許は部下達を適当に言い含めて作業に駆り立てるだろうが、その真意は直前になるまで理解出来やしない。まして軍事作戦なら決行されれば勝敗以外誰も気にしないのだ。許は結局、そういう手合いの人物で、加えて、他の傭兵達のセレモニーには顔を見せない三好秀俊が来ているのはこの為かもしれない。ふとそう思った。

「大島への攻撃に許少校や上尉は参加するのかな?」

「うーん、どうなんだろう?」

子珍は本当に何も知らないようだ。

……これ以上、無駄か。三沢は適当な所で話を切ろうとした。

 すると、今度は子珍が話を振ってきた。

「ところで三沢くん?」

「はい?」

「境港に来たアレなんだけど、アレって何入ってるの?」

「アレ……?」

「ほらほら、砲無しのBMP-2!その中身ってなあに?」

「……ごめんなさい上尉。正直何言ってるかunderstand出来ません。」

「むぅ、何で!?」

言っている事が伝わらなくてふくれる子珍に苦笑いするしかない三沢だったが、そもそもBMP-2は大坂の師団にしか回らない代物で、山陰陽にそんな物が入って来るとは思えない。

(傭兵共を積んだ便でBMP-2が?んな話聞いてない……傭兵?)

 三沢は少し意地汚くなった。

「上尉、正直に言います。私は境港にBMP-2が入って来ているなんて聞いてはいない。」

「え、うそ。」

「本当です。そもそもBMP-2は大坂の本隊しか使っちゃいないし、ウチはBMP-1の改修タイプで一応間に合っているからね、御存知の通り。一輌だけ送ってくるのもおかしな話だ。」

「……あれ、でも少校が。」

かかった。三沢は手応えを得た。

「許少校がどうしたの?」

三沢はどうにも腑に落ちないといった具合の子珍から漏れた言葉に食いついた。子珍はつい、しまった、と言わんばかりの顔をした。

「ええっと、ええっとね。」

「ん?どうしたんです、上尉?」

「ええ……っと、ね。……ん……うぅんと……。」

子珍は少し戸惑う様子で言うべき事を探していた。しかし、一度口をついてしくじると会話のペースは乱れるより他になくなる。まして言葉には不自由しているのだから、尚更だ。

(……別に、北京語で問い質してもいいんだけどね。この場で二三時間。)

三沢は内心、そう思っていた。彼は困った顔をする子珍に愛おしさと一抹の嗜虐心を覚えていたが、落とし所は定めておくべきだと考えていた。

 昔、無邪気故に人の神経を逆撫でする美人な女の子と研修で一緒になった時は落とし所を考えずに欲望に突き動かされるままに言葉の揚げ足を取り、話せば話すほどドツボに嵌る様にした事があったが、結局彼女は泣くに泣いてボロボロになり実家に帰ってしまった。大坂城に呼び出されて和泉御前から大目玉を貰ったのは良いご褒美、もとい苦い経験だ。あの時傍らでニヤニヤしながら自分を値踏みしていた宇喜多様にムカつきながら誓ったのだ。もうあんな真似はしない、と。

……周子珍の顔が涙でグシャグシャになりながら、嗚咽交じりに言い訳する様も見てみたいだなんて、露にも思わない。三沢は内心にケリをつけ、落とし所を定めた。

「……まあ、いいや。許少校はBMP-2が入って来ているのをどっかで聞いたのかな?」

「ううん、うん。たぶん。」

「探って来い」、そこまであからさまじゃなくても「それとなく聞いてこい」って所かな。

三沢は当たりをつけた。

(何も報せずに「輸入」した事への不審視か、或いは……許少校、人が悪くなったな。穏やかになった分だけ。)

三沢は恐らくあの「日本人」の事だと思った。アレの事は確かに太子党には話してはいない。境港に着いた偽装タンカーとて宇喜多の指示で先日漸く通達したばかりだ。ちょっと煽り過ぎたかもしれない。あくまで許少校達軍事顧問団は太子党の手先であり、詰まらない悶着は避けた方が為になるというものだ。

「正直な所、私では何とも答えられません。申し訳無いんですが。」

「そう、そうなの。」

平静を保つ為か、相槌が素っ気ない。何というかあからさま過ぎて却って妙だ。

「只もしかしたら」

「うん」

「大坂からこちらへBMP-2が寄越される様な事があるのかもしれない。その訓練用かもしれないですね。」

「おお、なるほど」

周は先程までの困り顔とは打って変わって表情が明るくなった。どこまで演技かは知らないが、出来れば素の反応であって欲しい。わざわざ人を疑って生きたくはない。……可愛い娘は特に、困るよりも(出来ればボロボロになるまで)困らせたいぐらいだ。

「こちらも何か分かれば連絡致しますので、今日の所はこれでご勘弁を。宜しいですか、上尉?」

「はい、アリガトウ。」

アクセントのズれた感謝に調子の狂う心持ちであったが、三沢は適当な別れをして、会場を出ていく周の背を見送った。

 周が離れたのを見届けると、少し身体から気が抜ける感がした。

「やれやれ、キナ臭くてかなわない。」

溜息と共に、三沢の口から愚痴が零れた。

「大敵を前に、利害の身で一致出来るか……我が事ながら見ものだよ、全く。」


―神戸・福原官邸―

「昨晩は随分と夜更かしされたようですね。」

「ああ、年甲斐もなくやってしまったよ。」

「私も学生時代を思い出しますよ。」

「おいおい。徹夜麻雀と一緒にするかね、君は。」

 《福原官邸》と俗に呼ばれる、宇喜多清真の屋敷は元々神戸を支配していた日共の高官が使っていた建屋で、宇喜多が福原にて兵を起こした時に手を入れて以来ずっと彼の屋敷として扱われていた。日共の高官の審美眼を全く理解出来なかった宇喜多は接収してまず持ち主の色を全て塗り潰し、真っ新な様にして屋敷を作り変える事に熱中していた。その片手間に始めた三木の戦いで宇喜多の軍に惨敗を喫した日共の軍隊は誠に不憫でならないが、その日共の将軍であった者達は須らく今宇喜多の軍門にあって老将ながらも歴戦の経験を生かしている。宇喜多はそのものを叩き壊す事をしない男だった。器に価値を見出したのなら、その理を変えて用い続ける男だった。彼はその喩えによくイスタンブールのビザンチン様式のモスクを挙げているが、それは彼がムスリムだからである。

「それにしても、ご友人の方を矛としてお使いになられるというのも、いやはや恐れ入る事です。」

「随分と口のきき方を覚えたな、三沢。」

「あなた様の受け売りで御座いますれば。」

ちょくちょく毒を吐く宿直・三沢実幸に対して宇喜多は多少睨む様な視線を浴びせるが、三沢はどこ吹く風と言った具合である。

「無駄口ばかり覚え負って……そんな口ばかり利いた覚えは無いぞ?」

「覚え無き程に、で御座いますよ。」

三沢は毒を吐きながら淹れたコーヒーを宇喜多が腰を据えている執務室のデスクに置いた。宇喜多はそれをためらいもせずに口元まで持ち上げた。

「……ふん、言い寄るわ。」

宇喜多は背もたれに体重を掛けながらコーヒーを啜っている。それを見て思い出したように三沢は話し出した。

「ところで、宇喜多様」

「ん?扶持なら増やさんぞ。」

「それは残念ですが、別件です。」

三沢はさらっと流した。宇喜多は平素の澄まし顔を見て、別件を悟れた。付き合いは長い。

「……太子党の犬めらが騒ぎ立てておるのか。」

「御意。境港のBMP-2について、詳細が聞きたいそうでしたよ、周上尉は。」

「ああ、アレか。」

「知っていたのですか。」

「当たり前だ。」

ならこっちに言えよ、じじい。三沢はそう思った。

「普段の保管スペースでは危険なものでな。」

「積荷はやはりそれだけのものなのですか?」

「まあな。別に吸ったら皮膚が爛れたり、星川の化粧が剥がれたりするわけじゃないんだ
がの。不用意に近づいたら生きては帰れん。」

「中身は猛獣ですか、あれは。」

「八洲の連中が一門郎党悉くを動員してどうにか退けたそうだ。少なくとも、我々の想像が及ぶ程の人間じゃないんだろう。」

「そんな化け物、何に使うんです?」

三沢は少し溜息をついて述べたが、宇喜多はそのままコーヒーを啜って続けた。

「……使い所はある。精士郎に内緒で聞いた所では雇った一流の狙撃手を遠方より認知し、追い詰めた挙句―――ったそうだ。」

ん?

三沢は聞き取れない部分が無性に気になった。しかし、宇喜多はもう言い切っている。敢えて問わない事にした。

「吉野菫でも狙いますか?」

三沢は自分のコーヒーを淹れている。宇喜多もそちらを向かない。

「一考の余地はある。腕の一本でも持っていければ随分と気落ちするだろうしな。」

宇喜多は再びコーヒーに口をつけた。三沢は手にコーヒーと砂糖入れを持って宇喜多の対面に座った。

「ところで、さっきおっしゃられていましたが、星川女王の化粧はマスタードレベルじゃないと無理なんですかね。」

「無理だろうな。聞く所によれば国家予算級の開発費だそうだ。あのオリーブ女も随分苦労するの。」

「オリーブ……?ああ、上杉橄欖ですか。あの露出狂女。」

宇喜多は呆れたように口角を上げた。

「本当、君も随分言う様になった。」

「星川の連中には色々喰わされましたからね。言いたい事は山ほど。」

「ふん、あの小童どもの見え透いた手に乗る貴様らの方がどうかしとる。それに無くしたのは精々小銃千丁あまり。目くじら立てる程では無いわ。」

「それでも、一通りの『お返し』はしてやりたいものです。」

三沢の口ぶりは軽い。しかし、宇喜多は一刻、思う所があり、その後に続けた。

「なら、腕の良い連中を紹介しよう。狙撃、服毒、爆殺、辻斬り、床上手、内憂に火をつけて燃えたぎらせる、どんな奴も知っているが御所望は如何に、お客さん?」

三沢は目を笑わせた。

「ああ、実に素晴らしい交友関係ですね。全く、悪人政治家ここに極まれり。」

三沢の言葉に宇喜多は心外そうな顔をした。

「政治家たるもの、せめて一人や二人、匕首を握らせる者がいなくてはならぬよ。」

「勉強になります。しかし、狙撃手と服毒者は何となく素性がわかりますが、床上手と放火魔は知りませんね。どなたでしょう?星川家は女ばかりですし。」

KYOHEI

「吉原に知人がいる。あそこの上役は食えん奴だが、下っ端共を狩り出すくらいわけないね。そういう伝手はある。昨今は女も遊郭通いをするようだしな。」

「はあ、世も末ですねぇ。」

三沢はわかりきった事にリアクションを取った。宇喜多はそれに続けた。

「遊郭を利用して策を巡らすのは古今の手。ラテン人もゲルマン人もやった手だ。使い古された手だが、効果はやはり高い。」

「欲に際限無し、ですか。それも肉欲と食欲は生き物ならば仕方がない。まして、万年繁殖期の人間なら尚更です。しかし、そういう所から離れる為の共産主義だったのに。数十年の苦行は何だったのでしょう?」

「軛を離れた後遺症だ。日共の上や〈科学者〉どもがどこまで本気だったかは知らんが、所詮実力で抑え込んだ人の性よ。西側文化の欲には際限がないしな。直ぐに色狂いになるさ。まして国が倒れたばかりで皆手持ちは身体だけだ。金も物も無い無い尽くし。遊ぶならそれしかなかろう。」

「とは言いつつ宇喜多様、福原の歓楽街は潰してしまいましたね。」

三沢の言葉に宇喜多は顔を崩した。

「良いザマであったろう?郷家も兵介もよくやってくれた。あれ程痛快な物は無かったのう。」

カッカ、と喉を鳴らして笑う宇喜多だが、三沢は現場にて歓楽街が燃え落ちる様を見ており、とてもそういう気分にはなれなかったが、一応愛想笑いはしておいた。

 革命後お尋ね者となっていた日共の幹部達が逃亡資金を得る為に娘を売ったという事案は聞いていたが、実際の有り様を見るとやはり怒りが収まらないのが人情というものではある。

 宇喜多は歓楽街に足繁く通う新興富裕層が日共幹部の逃走を支援していると聞き、大坂に黙って独自調査していたのだがそこで知り得たのは、親から憎め憎めと教え込まれた敵である客に貪り尽くされ、終いには取り返しのつかない身体になって歓楽街から厄介払いされた女達の無残な姿であった。

 無縁に堕ちたその者達の虚ろな目と摩耗し切った肉体。宇喜多は若い頃にアフリカで見た光景と酷似した実態に怒り狂った。所詮、この国の民でさえこんな物だ、と。

 結局彼も人の子であり、加えて、理念は兎も角としても、振るう手を欲しいままにする専制君主であった。怒りの儘に弟の将軍浮田郷家と出雲党の豪傑で浮田の部隊にて大隊長を務めていた山路兵介に命じ、歓楽街を一斉に取り締まった。取り締まりを利用し、暴力分子を排除するという名目で、女衒も客も寄生者達もヤリ手婆まで皆、殺した。宇喜多清真も側近達を連れて駆けつけ、「清め」の炎が歓楽街を包み込む様を見届けていた。そして殺された客達の骸に鞭を打ち付ける為に、詭弁虚言様々に駆使して、客達の資産を奪い取り、その名誉を悉く剥奪した。その一族達も徹底的に追及し、根絶やしにしてしまったのである。大坂はこの事実には一切関わらずにいた。知っても是認も否定もしなかった。宇喜多を恐れたのである。

 この時の彼は、極めて狂気的であった。それは彼が信仰するイスラムの教えに、では無い。単に己の理想にであった。国に帰って幾十年の時を経て、現実を前に封じるしかなかった青い理想は、偶然目にした非道を前に再び彼を充たした。失われた自らの在り様を不意に取り戻した主人が、三沢には実に恐ろしかった。これ程のものはない、と。三沢は軽口を叩いて彼と付き合いながらそう思っていた。

 理想ほど、仄暗き本質を示す物はない。理想ほど、正義を冠する凶気を生み出す物はない。

「で、どうする?星川もやるか?」

物思いに僅かに耽っていた所で、不意にかかった声に三沢は一瞬慌てた。

「ええ……っと、突然殴りかかるのも、アレですかな……?」

宇喜多は怪訝な顔をした。

「うん?どうした、さっきの勢いは?まあ、良いが。それならアレだ、アレが良い。」

「ッ……アレとは?」

「星川女王の懐刀、上杉橄欖はどうやら他の連中と対立しているそうでな。科挙と節度使、相良武任と陶晴賢みたいなもんだろうが、特に星川子飼いの笹川なにがしとか言う男が常に殺さんばかりに彼女を睨み付けておるという。狙い目だとは思わんか?」

「……面白そうですね。それを如何に料理するかですが。」

「激発するだけでも愉快な事だ。笹川、摂津、小田、岩月と武闘派が多い星川家だ。まあ軍閥ゆえ当たり前だがな。こ奴らを用いて上杉を引き摺り下ろせば貴様らも満足であろう?」

「ええ、堪らない。」

三沢は先ほどの物思いをどこかへ投げ、愉快な話に意識を集中した。所詮、三沢は嗜虐の虜である。宇喜多は更に付け加えた。

「因みに橄欖には心のみ交わした者がおるそうな。狙い目はそこだな。」

「はて、それは何故でしょう?」

「キリスト者だそうだ、そやつ。コミュニストだった橄欖を主の教えに帰服させたという打たれ強い男だそうだ。こやつを叩けば橄欖の心は必ず折れる。いや寧ろ」

「砕ける。それも木端微塵に。オリーブは萎み、油の抜けた奴は只の枯草。星川も柱が折れ、後は手足が頭を真似て嘗ての大本営の様になる。」

「明察だよ、三沢。やっと追い付いて来たな。」

宇喜多は弟子の答えに喜びを隠さない。三沢も光栄とばかりに破顔し、加えて心中で星川の城の前で笹川達が膝をついて聖戦に敗れた事を詫びる、どこぞの記録映画で見た様な光景を夢想し悦に入った。

 これから暫くの間、獲物を星川から清水、東京、吉野、更には和泉女院にまで広げて主
従2人は嗜虐の策を語り合った。全く、似たり寄った主従である。

 傾いた日を追って夜が頭上へやって来る。主従の穏やかな時間であった。

 日が暮れると、福原は静まり返った。最早人心を湧かすネオンの灯は無い。静寂という言葉がよく似合う、そんな頃合いとなった。


―神戸・福原都督府―

 静まった空間を靴の鳴らす音だけが響く。管理職として多忙となった若い男は仕事を漸く始末して宿舎に帰ろうとしていた。

 山路兵介。嘗て出雲で剛勇を謳われた若武者は背こそ人並だが肉体は良く磨かれ、齢三十に満たずして既に壮年の歴戦の猛者たる雰囲気があったが、内実は滾る想いに蓋が出来ず、現と望みの狭間にて苦しんでもがいている青年そのものであった。今趙雲或いは麒麟児、そう呼ぶのは人の勝手。兵介は常に兵介であり、これからも兵介である。自分が自分である事に否を告げる気など、更々ありはしない。

 少し、喉が渇いた。兵介はそう感じると帰り道から逸れて、都督府官舎の休憩所に足を伸ばした。

 官舎の空調は昼間に比べて弱まり、肌が汗ばんで衣服を湿らして気持ちが悪い。まして兵介はオフィス仕事での汗かきを少し恥ずかしく感じていた。昔は闇雲でも前線で一心不乱、只々戦っていればそれで済んだ。今、兵介に求められているのはそれではなく、多くいる、嘗ての兵介達を纏め、しごき、育て、制止しながら一方で塵芥の様に扱う事だ。こうなりたかった訳ではない。だが、どうなりたかったのか?それを漠然とした形でしか答えられなかった兵介は自分の倫理と義務によって、白い汚れの目立つオフィスのデスクに己を張り付けた。そうあるべきだ、と心に決めて彼はその道を選んだ。

 ただそれでも思う。出雲介の滅びと共に死んでおくべきではなかったか。そう思い出すと胸が締め付けられた。それが青年期独特の死への憧憬なのか彼の別の破滅願望なのかは自分でもよくわかっていない。しかし、生きるという事が少し重荷となってきた。自販機から買ったアメリカ産の炭酸水で喉を潤し、これまたアメリカ産の煙草を咥えた兵介は、嗜好という枷を堪能して余計に疲れを感じていた。

 腰のホルダーが揺れた。兵介は素早く手を回して携帯を開き、通話ボタンを押した。出雲から一時離れて関東で働いた時、電話は3コールで出る様に厳しく教えられていた。あの教会、やけに商人臭くて堪らず、結局3か月で逃げ帰ってしまった。兵介に残ったのは僅かなビジネスマナーと教会への苦手意識だった。

「はい、山路です。」

休憩室に自分の言葉が広がった様に感じた。つくづく携帯とはおかしなものだと兵介は以前から思っている。語弊誤解を差っ引いて、端から見れば完全に独り言、片言一人芝居なのだ。兵介にはまだこれを奇妙に思う素朴さが残されていた。

「……もしもし、わたしです。わかる?」

番号を見ずにボタンを押したが、声色を兵介は知っている。

「宇山真綾、君だな。」

「当たりです。良かった、いきなり切られなくて。」

「一昨日会ったばかりだ。俺は健忘症じゃないぞ。」

「わかってますって。」

律儀に言われた事に苦笑しつつ、電話越しに若い女は甘えた声をして兵介に絡んできた。

 宇山真綾。兵介より歳は若く、気ままに彼へと甘えてきた。物書きをしていると言うが、三流の度合いを抜けぬルポライターであり、実際は家計の足しする程度の稼ぎがある家事手伝いでしかない。そして、兵介にとっては「婚約者」という肩書を持った相手である。一昨日、休日に松江で食事をしたばかりだが、真綾は日に一度は欠かさず電話を掛け、週に一度は長電話で彼を拘束する。会う少し前から昨日まで、彼女は母親の腹の中にいる妹か弟の事を喜んで話していた。

 正直、毎日の電話は少しばかり鬱陶しいが、兵介は以前関東で魔が差して別の女と事を構えており、それ以来の行動確認に代えた甘えた長電話である。元はと言えば身から出た錆。止むを得ない。魔が差した事を悔いるか、或いは敢えて許した真綾に感謝すべきか、答えは言うまでもない。

「どう、お仕事?」

真綾の声は、甘ったるいがよく浸みてくる。何故かよく気に残る。兵介には彼女の人となりよりこの声の印象が大きかった。

「ああ、もう終わる。今、息ついた。」

「そう。お疲れ様です。」

「何かあったのか。」

「ううん。声が聴きたかっただけ。」

はぁ。兵介は愛想も無くそう言っただけだった。一昨日の食事の時に一通りの話はした以上、こちらから振る話題は特に見当たらない。寝食如何を共にしていれば所帯染みた事ではあろうが日々話す事もあろうが、互いに県境を跨いで逢う中である。取り分けて別段用もない。冷たい様だが、今の山路兵介にはそれが精一杯である。

 尤も、それは兵介の事情である。真綾は彼とは違う。

「ん?何か気のない返し。」

真綾は少し不貞腐れたかもしれない。兵介は声からそう思った。

「別に。俺はいつもこうだろう?」

「違う。一昨日とは別人みたい。」

そりゃ別人さ。兵介は心の中でそう愚痴った。今の彼は福原の山路兵介である。襟の固い服を着て、昼間なら山路大隊長と呼ばれるのだ。少し洒落を込んだ格好でフィアンセをエスコートする優男ぶりであった一昨日とは別人でなくてはならない。そもそも今漸く息をつけたのだ。真綾の様に気ままに電話をしてくるのとは違う。

 ともあれ、それも兵介の事情だ。真綾は真綾で彼女自身の事情がある。

「プライベート気分ではないかな。」

「そうなの?でも、終わったんでしょ?」

やはり、ちょっとだけ、不満げな声色だ。真綾は甘ったるい分、少し重い。兵介は経験則を持ち出して、やんわりと収めようとした。

「仕事は終わったよ。だけど、まだ気は抜けてないかな。昨日ならまだ会議中だったよ、この時間は。」

「ふうん、そうなの。」

真綾の声は大分灰がかかっている。経験上、これは良くない。そっけなく行き過ぎたか。兵介は少し焦り出した。

「まあ、なんだ。丁度終わった所だ。運が良かった。」

「私と話すのって、そんなに手の掛かる、大それた話なわけ?」

「ああ、いや、そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて、何よ?」

兵介はきっと戦場ならこんな失策はしなかった。状況への認識不足、そして現有戦力の乏しさを鑑みずに言い訳という手段を採った事だ。異性への宥めすかし、彼にその技能は乏しい。

「なんというか。ええっと」

「……」

真綾は沈黙している。これは拙い手を打った。宥めないといけない。

 兵介はまた下手を打った。

「……怒った?」

「もういい。お休み。」

あっ、と声をつく前に通話が切られてしまった。兵介は思わず携帯を下ろして見つめた。

 電話はもう何も言って来ない。真綾は今頃、携帯をベットかどこかに投げて不満を吐き出しているだろう。やってしまった。一昨日の頑張りが無に帰った。

 喫煙室は静まっている。それが妙に気に障って、

「ああ……、くそ。」

こちらもこちらで悪態をついた。煙草の灰がいつの間にか膝へ落ちていたのも無性に頭に来た。

 兵介と真綾の付き合いはそう長くない。出会ったのは出雲介降伏の二年前。鳥取管区の最後の拠点が畿内軍に攻略され、真綾の家族達を含む人々が難民として出雲へ向け徒歩で逃げ出しているのを救援にやって来た出雲軍が拾い、そこに従軍していた山路が真綾の母親を背負って後方根拠地まで連れて行ったのが馴れ初めである。

 その後、出雲の将軍であった宇山久頼が真綾の母を後妻に迎え、真綾は宇山の娘となり、その後山路と交際する様になった。出雲介降伏の頃である。山路は真綾と暫く同居していたが、宇喜多からの出仕要請を拒んだ結果東京方面へ出稼ぎに向かい、諸事の末帰郷した。真綾は諸事の幾つかについて詰問し、兵介は軽挙のツケを払わされる自体となったが、最終的に真綾に許され元の鞘に収まった。

 その真綾を度々怒らせる兵介。幾度と無く機嫌を取りながらぞれを全て帳消しにする失態を繰り返す兵介は、しかし真綾を失いたいとは全く思っていない。それでも一切成長が無いのである。兵介は只々悔いるばかりであった。

「声だけなら、なあ。」

 どうしてああも素っ気なくやってしまったのか。常なる事だが、悔いては湿っぽく悩む。兵介は自分でも未熟だと感じている。

 この時、声だけという彼女の言葉を鵜呑みにした事が最大の後悔となる事を兵介は身を以て味わう事になる。


―福原・???―

 兵介は戸締りをキチンとしたか納得するのに少し時間がかかる。気にしたら気にし続ける。そういう人間だった。

 だからこそ、再びここにやって来てしまう。

 閑散とした地。ジャングルとは言わないが、コンクリートの木々が次第に神戸という街に植えられていくにつれて、ここの地には異様な感覚が起きる。

 福原の「無名」区。呼ばれ方の通り、名無しの地である。ここは嘗ての快楽の園、そして多くの女達と弱者の怨嗟を溜め込んだ因果の地。歓楽街「濯ぎの街」、その跡地である。

「未だに手もつかない、か。そりゃそうか。」

分かりきった事。しかし、それが何より率直な感想だった。開発計画地という官営の看板が徐々に朽ちの兆しを見せているのが証左であった。今はコンクリートで土を覆って、痕跡を潰しているその地で見た物を山路は一生忘れない。

 そして、二度と日の目を得られなくなるまでに嬲り尽くされた女達の姿は忘れたくても忘れられない。抗う気も起きぬ程に人の手に掛かった人間というのはこうまで無惨であるのか。ただそれを思い出すと、褥で苦痛に身をよがらせながら客の足音を聞いていた女達の事なぞ露知らず、下卑びた顔で「濯ぎの街」を茶化していた一昔の自分が無性に恥ずかしく、堪らない。

 兵介は真綾の事を不意に思い出し、頭を振った。嘗て、この地を焼き討ちにした時、真綾の顔が女達に重なって怒りに震えたのは紛れも無く事実である。真綾とてこうならなかった訳ではない。時の巡り合わせ次第では有り得ない訳ではなかったのである。

 どうせ悔いるに決まっているのに、この青年は愚かしい事を浮かべる癖があった。真綾がでは彼女達の様になったなら、果たして自分は平然としていられるのか。彼女達の親の様に、娘を売りに出して逃げ出すような人間ではない。兵介は自分をそう思っている。では、真綾はどうだろう?耐えられるのか、彼女達の様に?そんなに強い訳が無い。きっと……

「強くある必要は無い。強くあって灌がれる穢れは無い。強いからこそ、その身は腐ったのだ。」

「そんな……腐ってなんか」

「梅毒に冒された身だ。花も散り、鼻も落ちた身の有り様は、腐ったという方が適切かと思うがね。」

「そん……、っ!?」

今、誰と話していた?兵介は途端に身を翻し、来た道の方を向き直した。だが、誰もいない。

「思い込み過ぎると、不意に応じられんぞ。気を付けておくべきだ。」

右斜め後ろ。兵介はハッとしてそちらへ体を返した。そこに男がいた。

「若人よ、懊悩は過ぎれば命を削る。これは先達からの忠告だ。心に留めておくといい。」

「誰だっ!?」

兵介は身構えた。対する相手は長身であり、恐らく、2メートルに少し足らない程度の筈だ。加えて着痩せしている。

 どこの巨人連隊帰りだ。兵介はそう思った。

「俺を敵と見るのなら、無防備に過ぎるぞ。小人、せめて礫でも握れ。」

「俺の背が低いんじゃない。」

男に身構えた様子が無い。男は表情も変えず、

「特段、俺の背が高い訳ではなかろう?」

そう惚けた。

 敵意を兵介は感じられなかった。身の構えを気持ち緩めた。

「……そういう事にしておく。他所で言って恥でもかくんだな。」

「ふうむ。皆、そう言うのだ。」

兵介は何も言いたくなかった。だが、聞かねばならない事がある。

「どうして俺が考えている事がわかった。それに誰だ、あんた。」

「問いは一言に一つまでとしてくれ。答え辛い。」

「なら、あんた誰だ。」

兵介は少し苛立った物言いをしたが、相手は気にも留めなかったようで、そのままの顔で答えた。

「そうだな……城井宗房とでも答えておこう。」

「とでも、ってなんだ。」

「名は幾つか用意してある。どれも紛れも無い俺の名だ。城井宗房はその幾つかの一つだ。」

「何を……」

「君が知るべき名はこれのみで良い筈だ、山路兵介。」

兵介は抑揚も無く勝手に人の名を呼んだ事に当然の違和感を持った。兵介はこの男を知ら
ない。

「君という人の前で、君に関わりを持つ俺は紛れもない城井宗房、唯1人だ。それ以外に関わりを持たない事を誓おう。尤も、耳にしたとして、俺と認める事など出来ぬだろうがな。」

「ハンドルネームかなんかとでも考えておこうか。」

「……そういうのは造詣が浅くてな。良くはわからん。」

「もういい、次だ。」

兵介は突き放す様に言った。僅かに宗房の口元が緩んだ様にも見えたが、気に留めない事とした。

「どうして、俺の考えがわかった?口になんて出してない筈だ。」

「ここに来て、足を止め、物思いに耽る輩など、大抵は皆同じ事を思う。そして、少なからず悔い、悩み、怒り、虚無に至る。どれもみな、代わり映えしない思索だ。」

「つまらない事、とでも言うのか?」

兵介は語気を強めた。宗房には相変わらず抑揚が無い。

「常なる事をつまらない、と思うのならばそうだろう。俺にとってはよくある事に過ぎんというだけだ。」

「にしても、頭に来るな。勝手に覗くような真似をして」

「それは、どの女の事を覗かれたと思うからだ?」

「何っ!?」

兵介は苛立ちを隠さなくなった。今にも掴みかからんばかりの顔で城井を睨み付けている。

「宇山真綾が凌辱された果てを思うのがやはり恥ずかしいか。」

「お前、何様のつもりだっ!」

兵介の激昂は辺り一杯に聞こえた。夜はそれを呑んでいく。宗房は続けて何かを言おうとしない。

「お前に何がわかる!?俺が何を見て、何を思ったかまでわかったような口をして!ふざけるのも大概にしろ!」

「仮にも愛すると言った女の哀れな姿を平然と思い浮かべる君が俺を罵れるか?」

「思っちゃいない!」

「では何を恐れている?どうして内心を悟られる事を嫌がる?」

「いい加減にしろよ、お前っ!」

兵介は一歩前へ踏み込んだ。そしてその勢いで宗房の所まで小走りに駆けて宗房の胸倉を掴んだ。

「ふざけるなって言ってんだよ、何なんだよ、お前っ!ケンカ売ってんのかっ!」

「やはりな。心を閉ざすか、山路兵介。」

「っ!!!」

兵介は胸倉を掴んだ両手から咄嗟に右手を離し、そのまま拳作って振りかぶり宗房の顔面
目掛けて投げ込もうとした。だが、宗房は空いている左腕を素早く上げて兵介の肩に左手を開いて押し当てた。肩を止められた兵介は振りかぶったままで、拳は宙に浮いた。

「心に疾しさの無い者が、心を閉ざすものか。他者に対しての恐れ、嫉み、怒り、憎しみ、卑しき願い、それが無くして何を恐れる。」

「それを、お前がどうして言う資格があるっ!?」

「世に立ち、人と関わる者が、どうして覗かれる事を嫌悪し、拒む?」

「そうじゃねえだろうがっ!」

兵介は力一杯に肩を動かし、殴ろうとした。しかし、宗房の手は微動だにせず、いつの間にか掴んだ腕も宗房の右手によって引き剥がされ、咄嗟に離された右手が兵介の胸に押し込まれそのまま突き飛ばされた。

 前のめりに力を入れていた結果、突き飛ばされてバランスを崩した兵介は尻もちをついた。

「何処の誰かもわからぬ奴に、という所か。なら、それは己を知らなすぎる、山路兵介。」

「何をっ!?」

宗房は尻もちをついたまま睨む兵介に一歩近づいた。

「お前は既に、多くの目に晒され、多くの好奇の目がお前達を見ている。ここに度々寄って物思いに耽る事も〈皆〉が当然知っている。」

「おかしな事を抜かすな!誰が!何の為に!イカれてるっ!」

兵介はひどく興奮し始めていた。宗房はそれをわかっていた。

「〈皆〉がこうしてお前を見ている。」

宗房はジャケットの裏に右手を入れてすぐに引き抜き、そのまま兵介に向けた。兵介は一瞬で目が覚めたようだった。宗房の右手には彼が見慣れた物、それに近しい物が握られていた。

「こうやって、な。」

右手は兵介の知っている物より一回り小さい銃を握っていた。これが「ライノ」という小型の銃である事を兵介は知らない。


―磐見・益田―

「ここから先が、敵地と言う訳か。」

助手席にもたれ、白皙と呼べる肌の男がそう質す。ありきたりなビジネスマンのジャケットを羽織り、ネクタイをせずに胸襟をやや開かせてカッターを着ている男はシートベルトを乱暴に除けて皺が寄ったカッターとジャケットを整えた。上下のビジネスマンルックはどちらも新品だったそうで、男は少し気にしていた。

 ハンドルに手を置いたままの浅黒い男は停車の措置を取りながら答える。彼は濃緑のT型のシャツにジーパンとスニーカーを着ている。ヨレの入ったシャツの下は汗ばんでいて、服の上に染み出ていた。

「津和野までがウチのエリアかな。須佐や徳佐は自信持ってそうだ、と言えん。」

「だとするなら、ここは随分と弛んでいるな。」

白皙の男の淡々とした言い草に、浅黒い男は少し困った様な顔をした。

「そうヅケヅケ言いなさんな。」

「戦争なのだろう?スサやトクサは目と鼻の先と言っても良い筈だ。」

「仮にも同胞さ。争うのは互いの御上と欲に目の眩んだ輩ばかり、そう思ってんのさ。まあ、本格的に始まったなら、もうちっとマシになろうがな。君の故郷・・・サラエボだったけか。そこらとは違うさ。信仰も話し言葉も殆ど同じ、紛れもない同胞だよ。御上の違い以外はね。」

浅黒い男はそう言って口元を綻ばせ、キーを抜いてベルトを外した。

「どこへ行く?」

「少し歩こう。そこに高台もある。なあに、心配はいらん。若い衆がそこらで見張ってる。君の息子達もそうだろう?」

「出来の悪い。悟られるなと言ったのに。」

「それは俺を嘗めすぎだよ、セルビアン。これでも俺は『犬』暮らしが長いんだ。」

呆れた顔の白皙を宥めつつ、運転席のドアを開いた浅黒の男は車外へ出た途端、陽射しに目を細めた。

「少し汗ばむが、ここを登ろう。見晴らしが良い。」

「急な斜角だな。これまでとは随分違う。」

白皙の男は首を斜め上に傾けて、天辺を眺めた。階段は幾重にも見え、その先は遥かに感じられた。浅黒の男は同じような姿勢になり、そのまま天辺を指差した。

「山城の跡地だそうだ。その上に神社を置いた。」

「城の名は?」

浅黒い男は白皙の者の言葉に少し笑いをこぼした。

「君のお気に召したかね。」

「知っておける事に無駄な物なぞ有りはしない。その知が何かに引っかかるなら、実に有意義な事だ。」

「そうかね。そりゃ殊勝な心掛けだ。」

浅黒の口は少し、からかったような言い回しだった。

「七尾城。七つの尻尾、ここら辺もそういう地名だった筈だ。広島のおっかない連中が攻めてくるのに対抗して城を築いたそうだ。」

「その辺り、知る事を皆聞かせろ。役に立つ。」

「生憎だが、俺はここまでしか知らん。後で戦史室の連中を紹介してやるから、そいつに聞いとくれ。」

「ふん。まあ、いいだろう。」

白皙の男はそう言うと、石組みの階段を登り始めた。浅黒の男も後に続く。

「随分と早足だね、君は。ばてるぞ?」

「馬鹿にしているのか?俺が誰だかわかっているのか?」

「慣れない地だ。先達の言う事は聞いておけ。」

白皙は振り返らずに足を前へと踏み込み続けた。変わりの無い歩きぶりに浅黒い男はやれやれといった素振りをしてそのまま後ろへついて行った。白皙の男は後ろの仕草を感じた。

「……殆ど知らぬ土地なのだろう?」

「まあ、それもそうか。」

浅黒の男はそう吐いた。

 幾重にも登る道。足を上げて踏み込むにつれて、固い足場が靴の裏から圧迫してくる。だが、白皙も浅黒の肌のいずれも何ら変わった様子も無く登り続けている。

 浅黒の男は後方を見やった。後ろからは幾人かの若い男達が歩いている。白皙の男よりも少し肉の色をした金髪碧眼の青年と背の低い青年が続き、その後ろから最後尾には浅黒の配した若手の衆が続いていた。

 山の上から風が下りてきた。夏の近しい頃。まだ、風は熱を知らず、汗ばむ肌を心地よくしていった。

「どうです、何か気になりますかい?」

「風は悪くない。」

「そうです?そりゃ良かったよ、ゲリッチ隊長。御満足頂けたなら山陰陽の人間として鼻が高いってもんだ。」

「何も知らないのだろう、シンスケ・ノベハラ?」

「まだ言うんかい、隊長さんよ。」

山陰陽都督府陸軍の師団長、延原新助は対するセルビア人傭兵隊長ジャルコ・ゲリッチに少なからず辟易した。

「地も時の重なりも知らずに視察をするのは愚かしい。肝に銘じてほしいな。」

「そうだな。肝に灸でも吸えておこう。」

延原はそう言って、苦々しく笑った。

「もうすぐ、天辺か。」

白皙の男、ジャルコ・ゲリッチは少し楽し気な声だった。

「ああ、社が見えて来る。」

「ヤシロ?ああ、神社の事か。」

「そうさね。神社の『ジャ』は『ヤシロ』の漢字と同じだ。意味もね。」

「なるほど。」

新助は興味深そうにする目の前の馬鹿でかい背をした男を少し笑いたくなった。

「隊長の『ジャルコ』って名前はおヤシロの『ジャ』かな?」

「何を言っている?」

「ああ、忘れてくれ。」

新助はユーモアのセンスを持ち合わせていなかった。

「着いた。」

階段を登り切った。ジャルコ・ゲリッチはそのままの勢いで社の所まで行った。浅黒の男、延原新助は階段の後方を見やって後続に早く上がる様に手招きして、ジャルコに続いた。

「眺めは良い。」

「そうだ。ここで敵を迎え討つ筈だったしな。結局、城の主である益田藤兼は広島の吉川元春に戦わずして下ったがな。」

「益田は死んだのか?」

「いや。益田は吉川の親父だった毛利元就って男はいろんな兼ね合いがあって藤兼を殺そうとしたが、吉川が命乞いをしたんだよ。」

「なぜ?何か秘宝でもあったのか?」

延原は微笑んだ顔をして、横に首を振った。

「益田は使えたんだ。外交官としても使えたし、中華辺りと交易してたんで金があった。ここら辺一帯、そうだな、だいたい大田辺りまでを石見と言うんだが、益田はそこで一番デカい領主だったんだよ。」

「ほう。最後はやはり金か。」

「才覚もな。君と俺がここまでやって来れたのもきっとそうだろう?」

「随分と自信家だな、シンスケ。」

「君ほどじゃないさ、ジャルコ。ま、君の場合名の知れた実績もあるしな。」

延原新助はそう言いつつ、登り切った後続に目を遣った。

「マスダもシンスケのように自信家だったんだな。だから、降伏しても殺されないとわかっていた。」

「そいつはどうだか。さっきも言ったろ?毛利は殺す気だった。」

延原はそう言うと踵を返して社の方へ向かい、賽銭箱に腰を掛けた。ジャルコはそちらを向いた。

「すぐに座りたがるな。」

「俺は尻が重いんだよ。」

ジャルコは怪訝な顔をした。延原はジャルコの顔を見ていて、彼が存外正直な奴だと最近気付いた。

「益田藤兼と戦った毛利元就って男はとんでもなく恐ろしい男だった。理由はどうあれ、弟を殺し、ある家臣を根絶やしにし、敵の大将を敵の家族や家臣に殺させた挙句自分へ寝返った敵にいちゃもんつけて殺し、家も土地も奪った。それに海賊を従えて航海中の船から金をせしめ、主人を好き放題に鞍替えして山陰陽の王者となった男だ。そんな奴の同盟者は益田と長年戦った吉見って津和野の領主だ。益田は吉見との関係の中で殺される筈だった。」

「ツワノの領主はあのカメイだろう?」

「東京に仕えている奴か。あれは元々出雲の男だ。毛利の敵尼子氏の家臣だった。地元じゃないのさ。加えて亀井は百年前くらいに貴族の養子をもらった。出雲の血でもない。」

「おかしな話だな。」

「ヨーロッパ人にはそう思えるだろうな。」

延原はそう言ってジーパンのポケットから煙草を取り出した。

「ヤシロは木造だぞ?」

「……大丈夫だ。汗で湿気ている。もうだめだ。」

延原はそういうとまたポケットに煙草を戻した。

「益田が許されたのは元就の息子、吉川元春の口添えがあったからさ。」

「キッカワ。そいつはどっかに養子に入ったのか。」

「御明察。さっき言ったやり口だ。身内を裏切らせて家を奪った。だが、親父とは違って軍人気質な奴だったようだ。勇敢でもあった益田藤兼を殺したくなかったんだそうだ。」

「変わっているな。」

「俺や君ならそうだろうな。まあ、よくも悪くもお坊ちゃんだったんだろうか。」

「それに対してモウリはあくどい。まるで、ウキタのようだ。」

「随分とあけすけにいいやがるな、君。仮にも雇い主だろう?」

延原がそう言うと、ジャルコは今日初めて笑みを浮かべた。

「そうは思わないのか?あれが聖人には見えんだろう?」

「……ぐうの音も出ねぇ。」

延原は惚けた顔で肯定をした。

「ウキタはモウリか。確かに凄腕だ。実に軍閥の長らしい。」

「ああ。創業家のヤリ手社長とかもそんなもんかもしれん。それに留まりはしないがね。毛利はヨーロッパで言うなら、そうだね……上手く行ったヴァレンシュタインかな。」

「ヴァレンシュタインより余程悪質だ。奴は奸計を用いない。」

そうかね?延原はそう言うと少し唸って考えてから答えを出した。

「他にらしい奴って言えば、スフォルツァとかかね?」

「そんな所かもしれん。ニホンの大きさや封建体制はイタリアやドイツのそれらと似通っている。」

へぇ。延原は感心した。

「随分と造詣が深いな。」

「祖父が歴史学者だった。その影響を受けた。」

「そりゃいいな。家で歴史や文化の話なんか俺は聞いた事が無いから、なんか羨ましいよ。」

「家で何の話をしていたんだ?」

「御近所の噂話や悪口。上司からいじめられた愚痴とかかな。」

「……どこも似たようなものだろう。俺も親がそうだった。だから、祖父の所に
いたんだ。」

延原はそう言われるとまっとうな顔付きをした。

「子供はあんなもの聞いたらいかんな。頭が腐っちまう。」

「ああ、実に不毛だ。」

ジャルコの声はどこか寂しさを抱えていた。

数刻の間、互いは黙っていた。

「……さて、と。」

黙り込んでいた延原は賽銭箱から腰を下ろし、ジャルコの方へ歩み寄った。

「益田の街は西石見の玄関だ。人口は5万人程度だが、ここを抜かれると浜田港も江津も一気に抜かれる。」

「だからこそ、先に」

「そうだ。防長を手にして、奴らを関門海峡から陸に上げさせん。」

「防長の守りは薄いのか。」

「ああ、そうだな。どっちつかずにやって来たから。あの女が県令を殺ってから、すっかり内戦みたいだが、戦力としては知れている。それこそ、君の部隊を送り込んで機関銃でも撃ち込んだら直ぐにこうさ。」

延原は両手を頭の上に伸ばし、顔をわざとらしく強張らせた。

「ふん。そんなものか。なら、一気に仕掛けてしまえばよい。」

「浮田将軍と同意見だな。さっさと防長を叩いて、小倉の機先を制したいみたいだ。」

「なら、なぜやらない?」

ジャルコは少し食いつき気味に述べた。

「それが政治だよ、ジャルコ。福原官邸はどうやら防長の畿内派からSOSを受けた上で本格的に戦いたいようだ。実際、あの女の件はこちらの関与じゃない事になっているが、実際は言わずもがなよ。挑発は利いている。」

ジャルコは思わず溜息をついた。

「やはり俺はモウリ嫌いだ。モトハルのが余程良い。」

「そう言うだろうとは思ったよ。ただね、君。」

「なんだ?」

「宇喜多公は元就より良く似た人物がいる。」

「誰だ?」

「そいつは宇喜多直家。全てを失いながら一代にしてその全て以上のものを奪い得た梟雄だ。」

「ウキタナオイエ……ウキタ……まさか」

ジャルコはそれを聞いて少し笑った。それも苦々しい、綻ばさずにいられないが故の笑みだった。延原はそれを見てにやっと笑った。

「遠縁の直系だそうだよ。宇喜多公の御先祖様は。」

社は昼の陽射しが降って来ていた。供の者達は実に暑そうであった。


―???―

「長電話かと思ったのに。」

傍らの男に対し、横たわった女は怒気を孕んだ声を投げた。

「……あなたに、何の関わりがあるの?」

「貴方は彼といつも長く話しているからな。」

そんな事、と言いかけて女は無駄を悟って止め、代わりにポツリと漏らした。

「……彼は忙しい人。私だけのものじゃないもの。」

男は手に持った注射器の液体に目を通した。漏れた言葉を聞いて、少し毒を吐きたい気持ちになった。

「そうかね。彼は実に無駄をしているのだな、それは。」

「あなたに何がわかるの?何でもいいわ、さっさとどうにかしなさいよ。」

投槍な言い分に、男は少しだけ魔が差した。

「構わないのか。父とは言え、血の縁などないのだぞ?」

「知ってて言ってるんでしょうね。くそったれ。」

吐き捨てられた恨み節に、自分の軽薄さを男は呪った。

「……覚悟は問うた。最早、私が躊躇う理由は無い。始めようか。」

注射針を肌に当てる。その前にアルコールで湿らせた脱脂綿を以て、男は女の肌を拭いた。白い肌。若々しい、水も弾くやもしれぬ艶をしていた。

 女は少し、躊躇ったのか、唐突に男へ問うた。

「お金は?」

男は先ほどの魔が彼女を戸惑わせている事を察し、内心酷く悔いた。

「既に届いている。ベルリンからスイスを介して、十分に洗った金だ。問題は無い。」

男の答えに、女はただ溜息をついた。

「……出所、聞かなきゃよかった。」

「国連事務総長御用達のルートだ。この国のメガバンクより国際的信用がある。安心しなさい。」

「……わかった。信じるよ、イオン・マリカ。」

男の手が止まった。懊悩は暫く、男を苦しめるであろう。

 だが、彼女の覚悟、これ以上揺らがせてはならない。

「お休み、お嬢さん。アラームはこちらで仕掛けておく。」

注射針が白い肌に刺さる。男の親指はゆっくりと動き、女はそれを見ている。

 男は女をもう見ようとしなかった。この世界、タダで変わりはしないのだ。この女が礎
となるか、或いは最初の成功者となるか、もう考えたくは無かった。

 注射器が抜かれ、針の跡に綿を置く。そして注射器から針を取り除いて始末をする。その一連の動作を見ながら、次第に微睡みに落ちていく女には、ふと、瞬間に頭に過った事があった。女は案の定、悔いた。

―――――もっと、話しておけばよかった。

「脈拍正常。取り敢えず今の所はクリアって所ね。」

マスクをした金髪の女が眠りに落ちた検体の脈をとっている傍で、男は気の沈んた声で呻いた。

「皆そうであったろう。これで何人目だ。」

「665人。あと1人でオーメンね。アジア人は彼女で80人目よ。」

「お前という奴は……っ。」

女は男が立ち上がるのを手で制した。

「埃が立つ。今、別のを入れる最中なのよ。」

「今度は上手く行くんだろうな?」

「さあね、どうだか。」

「……どういう事だ。」

「女の身ってデリケートだから。ちょっとぬかると一瞬でパーよ。だから、暴れないでね。」

「俺を嘘吐きにしやがったら、そのツケ払ってもらう。」

男は実に苛立った物言いをしたが、女は先ほどから同じ調子で変わらなかった。

「随分と執心の御様子でありますこと。なあに、懸想でもした?」

「殺されたいのか?」

「まさか。」

金髪の女の言葉はやや笑みがかかっていた。

「せっかく実験だけに気を使えるようになったのに。まだ死にたくはないわ。」

気を使えるんじゃなく、それ以外に気を回せなくなったのだろう。この気狂い。男は内心そう愚痴った。

 男の故国の同胞や人道団体を騙って収奪した多くの難民の子やストリートチルドレンを喰い尽くし、今も犠牲者を生もうとしているこの女、そして男の雇い主。男はそれでも、漠然とした決意から彼らの手を取った。その挙句のこの外道はわかっていた筈である。

「そういや、先生は今日来ないのね。」

女は額の汗を白衣の裾で拭った。女はこの国の多湿な環境と季節を愛してもいたが、同時に難儀もしていた。

「ああ、定期考査だそうだ。」

「懐かしいなあ。私テスト嫌いでさあ。特にロシア語。ホント、糞喰わされてる気分。」

「口が過ぎるぞ。ここのスタッフにはロシア人だっている。」

女は少し笑みを浮かべた。

「あは。そうでした、そうでした。でも、貴方はロマンス系なんだよね。」

「東ローマは一応そうだと言う。ホントかどうかは知らない。」

「ふーん。」

自分から問うておきながら、女は関心の薄い反応であった。男はもう慣れている。一々どうこう言う気も無かった。

「しかし、貴方の国も難儀よね。今更になってチェウチェスクの方がマシとか言っちゃうんだもの。」

「ヒトラーとチェウチェスクは違う。所詮関わりあるのは国民だけだからな。」

「それもそうか。ドイツだけじゃないものね、こっちは。スラブの連中にとっては死活問題なわけだし、総統閣下(デア・フューラー)は。」

「こうしてお前のような奴も生まれてくるわけだしな、アーニャ・オレゴヴナ。」

アーニャ・オレゴヴナ・ブブノワは溜息をついた後、男に向かって少し微笑んで言った。

「アンナ・リッツマンよ、イオン・マリカ。いえ、〈ルーク〉?」

目がまるで笑っていないその笑顔は、男の背を少し冷やした。

「承知しているよ、ミス〈ビショップ〉。ミュラー財団記念研究所の主席研究員殿。」

そう言われると、アーニャは少しだけ戸惑ったような表情になった。

「なによ、その説明臭い言い方。今更になって。」

「確認がてらの話だ。間違っているか?」

「……別に。抜けているけど。」

「何がだ?」

アーニャは手を止めて、体ごと向き直って述べた。

「若き髑髏部隊(Jung -Totenkopfverbände)、その指導者(Reichsführer-J-TV)よ。」

ああ、そうだった。男はそうぼやいた。



依央りせ

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