2014年3月2日日曜日

西宮堯彦

西宮堯彦
天壌無窮

 禍津日原総督。光復帝雲母日女の弟(皇太弟親王)。後に日本帝国第二代皇帝「聖徳帝」となる。


 日共時代には、反共勢力の巨頭として抵抗運動を行い、「山城法華一揆」を起こして平安京を一時占領した。その後、山梨県(現在の甲斐県)の仏教勢力を率いる七宝院夜宵に保護され、七月革命では国民軍・星川軍と協力して東京コミューンに侵攻、東京城から元化天皇を救出した。

 日本帝国成立に際しては、右翼に担がれて姉との帝位継承闘争に挑むが敗れ、クレーター復興庁に左遷(事実上の流刑)。同時に臣籍降下して仏門に出家し、歴史の表舞台から消えたように思われた。しかし実際には、家臣の鷹司智子・落合航らに支えられて復権工作を進め、絶望的と言われたクレーターの復興を成し遂げた。また、教育運動を行っていた葉山円明・大牧実葉らに安価な土地を提供し、禍津日原第四学校の創立にも成功した。こうした活躍を前に、光復帝も過去の私怨から脱却し、復興庁を禍津日原総督府に昇格させ、西宮を総督に任じた。

 「AB派」と呼ばれる直属の軍隊・特務機関を養成し、東京政府内の革新勢力を警戒していたが、その予感は的中し、光復21年に葉山円明・遠野衛らによるクーデター「八月事変」が勃発。総督府を日本帝国臨時政府に改組し、星川軍と共に鎮圧に当たった。

 23年、雲母日女の譲位を受けて皇帝に即位し、元号を「聖徳」と定めたが、
  • 国号を「日本帝国」から「大日本皇国」に戻そうとした。
  • 国教を天主教から日本の民族宗教に戻そうとし、明治~昭和時代の戦没軍人を神として祀る東京招魂社(東京市麹町区九段坂)への参拝を強行。
  • 光復上皇・吉野菫首相と対立して混乱を招き、しかも寵臣の十三宮勇にクーデターを起こされた。
など、立憲君主に相応しくない言動が多く、人民の心は帝室から離れつつあった。

 日本が共和制に移行すると、平安京国を独立させて帝位を維持し、親族を結婚させて南朝皇族の血筋を守り抜いた。同時に、北朝の末裔である豊臣秀国(近衛秀国)を帝位継承者に迎え、南北朝の和解合一を果たした。

 本来ならば宮家を新設する程の実力があったが、厳格な仏教徒(法華宗)として独身を貫いた。同様に、禁酒・禁煙・菜食を譲らない禁欲主義者である。暇あらば唱題(「南無妙法蓮華経」と題目を唱える修行)に没頭しており、その際は丁重に話しかけないと機嫌を悪くする。

 政治的には反共で、中華ソビエト共和国の独裁体制を批判しているが、儒教・道教といった中国文化そのものは高く評価し、中華共和国(台湾)を中国文明の正統な後継者として支持する「親華派」である。

 専攻分野である宗教学のほか、文学にも造詣があり和歌・漢詩を吟ずるのが得意。また、仏教史への関心から考古学を学び、百済遺跡の発掘調査に家臣を派遣している。帝室博物館への支援など、学術振興にも尽力。

 伝統的な神社信仰を精神の基軸に据えつつ、中国や朝鮮半島と対等に交流し、欧米からも学ぶべき事は学ぼうとする真正の保守主義者であり、とかく排外主義に走りがちな右翼言論界においても貴重な存在である。

 れっきとした成人男性のはずだが、外見と声がそれに一致しない。

 固有属性は空(守備力増加)だが、守護霊ベナレス(西宮の前世とされる)を召喚する事により識(全属性)を一定時間使える。武器は神剣と団扇太鼓。彼を象徴するタロットカードは5「法王」。

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