2014年8月7日木曜日

布施朋翠

布施朋翠
東洋平和
「待たせたな」 

 禍津日原第四学校に勤務する国教徒。日本生まれ日本育ち日本国籍の純然たる日本国民だが、民族的には在日朝鮮人の血を継いでおり、彼自身も半島への帰属意識が強い親韓派である。
 日共時代に生まれ、その人民学校に通って大牧実葉・葉山円明・天河和茂らと親交を結ぶ。だが本心では、日本と北朝鮮の自然・社会・文化を破壊した共産主義を強く憎んでおり、密かに反体制派組織と連絡を取っていた。

 光復元年の七月革命では、隕石の衝突という未曽有の災害で負傷しながらも、この天変地異を「義なき覇道政治に対する神の天罰」と礼賛し、自ら反乱軍に参加して日共軍と戦う。また、街中でたまたま出会った海棠雄也と共に党施設の非常食保管庫を襲撃し、逃げ惑う人々に食糧を分け与えた。

 安重根を尊敬しており、彼がキリシタンだった事から天主教に興味を抱き、神学校に入学する。ここで、隠れキリシタン一族の十三宮聖・勇姉妹と仲良くなり、聖とは恋愛関係にまで発展するが、彼女を独り占めしたいという衝動や、そんな自分を試そうと誘惑して来る勇との浮気に苦悩する。そして、遂に「死に至る病」(絶望)を発症して聖を殺害しようとし、それが失敗すると自殺を試みるが、これも聖に制止される。しかし、この事件を機に二人の絆はむしろ深まり、煩悩的・性欲的な男女関係を超克した、信仰上の同志として共に生きる事になった。そして、堕ちるところまで堕ちた自分を救ってくれた聖を師と仰ぎ、彼女が属する十三宮教会に入信した。以後、禁酒・禁煙・禁欲を貫く。

 大学では政治学を専攻しつつ、学校教諭免許の取得を目指し、十三宮仁・星河亜紀らが通う区立中等学校で教育実習を行った。

 大学卒業後、禍津日原第四学校に社会科教諭として就職し、大牧・葉山との再会を果たすが、二人の左翼的な教育方針を批判し、特に葉山とは教員室でほとんど毎日大論争していた(大牧は適当に流していた)。

 政治的には保守主義者であり、戦争や軍拡はやむを得ない場合もあると考えているが、非戦論者の須崎優和司祭に「戦争を正当化するなら、自ら率先して軍人になり、その悲惨さを身を以て理解した上で主張なさい」と言われたのを機に、国民軍予備士官補に志願。教官の八洲精士郎から心身共に厳しい訓練を叩き込まれるが、理想に一途な八洲の生き様に共感し、正規軍に入隊できる程の実力を身に付けて修了した。

 18年の上野戦争では、八洲指揮下の義勇兵として日共残党と戦い、重傷を負いながらも須崎と共に上野教会の聖域を守り抜き、星川結ら多くの人々を救出した。須崎はその働きに感謝し、専守防衛・正当防衛の必要性をしぶしぶ認めた。

 葉山が政界に転身した後は、大牧や間宮歩と共に四校の再建・改革に尽力する。儒教道徳を重んじ、陰湿な不良学生に対しては体罰スレスレの厳しい指導を行う事で知られる。当然ながら、ゆとり教育を進める大牧とは対立する事が多いが、大牧と仲の良い泰邦清子からは「火病の割には話の分かる愛国者」と尊敬されている。また、西宮堯彦らAB派と協力関係にあり、四校の研究教育実績を報告するという名目で総督府に出入りし、禍津日原や東京の公安情報を交換している。そのため、葉山の不穏な正体を探ろうとして大牧に捕まり、催眠で記憶を消された事もある。

 数年後、大韓共和国と朝鮮人民共和国が交戦状態に突入すると、大韓義勇軍に志願して北朝鮮に侵攻し、平壌の軍事政権を討滅。独裁者の銅像が倒され、太極旗に易幟されるのを見届けた。

 純潔を貫いた翠には子がおらず、彼の死を以て布施朋家は滅んだ。それは、半島統一によって北緯38度線が消滅したのと同日同時刻の事だったという。

 「布施朋」という苗字は読みにくいため、単に「布施」と呼ばれる事もある。由来については、
  • 日本領時代での創氏改名で適当に決めた。
  • 朝鮮人としての苗字「朋(ほう)」に、縁のあった日本人の苗字「布施」を組み合わせた。
  • 「友に施す」という意味を込めた造語。
などの説があり、本人はこの事について話そうとしない。「翠」という名前の通り、翡翠をお守り的なアクセサリーとして着用している。

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