2013年9月30日月曜日

笹川孝和

 日共軍大宮旅団少将を経て、星川軍「武断派」将校の領袖。

 埼玉(現北武)県に生まれ、星川初から実の子弟のように可愛がられて育った「子飼い組」の筆頭だが、一方で受洗前の上杉橄欖からは体罰・虐待まがいの厳しい扱いを受けていたとも言われる。

 「母」である星川の大恩に報いるべく、日共時代から大宮旅団の一番槍として武功を上げ、驚異的な昇進を遂げた。「出羽大返し」でも急先鋒を務め、宇都宮決戦では遠野衛率いる日共空軍に地上から猛攻を加えた。「心臓が息の根を止めるまで敵に背を向けない」という信念は、星川軍人の模範として士気の柱になると同時に、日共時代の精神主義・総力戦(ルーデンドルフ)思想からの脱却を妨げるという弊害もあった。

 光復15年の第二次埼京戦争では、東京軍による奇襲が予想された岩付城の司令官を拝命し、豊富な実戦経験に基づく作戦計画を準備した(若年の星河亜紀も同時に派遣されており、笹川は「母上」の親族たる亜紀の扱いに苦慮した)。ところが、大宮から督戦のため派遣されて来た上杉は「シビリアンコントロール」を振りかざし、「野蛮で芸がない」などという理由で布陣変更を強要し、反対する笹川に向かって軍人のプライドを侮辱するかのような発言をした。しかも、笹川の懸念通りに上杉の素人軍略で岩付が落城寸前になると(大手門と新曲輪で指揮系統を分割してしまったため、各戦線の連携が不可能になっていた)、上杉は笹川に責任を押し付けて真っ先に逃げてしまった。結局、大宮からの援軍によって岩付奪還の上で停戦を迎えたものの、この一件は幼少の記憶と相まって上杉への激しい敵愾心を生じさせ、「母上が天下を取れないのは奸臣上杉のせい」と考えるようになった(笹川は上杉に代わって岩付失陥の責任を取らされ階級を剥奪されるも、星川の「恩情」によって復帰している)。

 その後、岩月愛・小田皐月らと共に武断派グループを形成し、政治的行動が目立つようになるが、当初は軍人の待遇改善要求など労働組合的性格が強かった。

 17年の河越夜戦では、捕らえた日共残党に対する寛大な処置を星川に懇願するなど、情に厚い一面を見せた。続く浦和騒動では、埼玉の東京権益を武力で回収しようとする上杉の謀略について、「勝算なし」として岩月と共に反対した。上杉は岩月を浦和連隊に左遷するが、笹川は星川からの信頼が厚く排除できなかった。しかし、彼自身は必ずしも岩月のような和平派ではなく、いずれは米中を巻き込んだ東京政府との「最終戦争」が起きると考えており、それは後に現実となった。

 法華宗に造詣があり、加藤清正を尊敬している。このため、21年の八月事変に際しては、信仰を同じくする西宮堯彦との同盟交渉に活躍した。禍津日原の戦いでも最前線に出張り、成り行きでクーデター軍に加担した雪花晴久と邂逅している。

 旧青薔薇党・日共残党・樹下進・急進派学生などの協力を得て、22年(星川訪中)と23年(星川戦死)の二度に亘って上杉橄欖暗殺未遂事件(水晶の夜)を起こした。特に第二次事件は、上杉が星川の葬儀を独断で西洋式に執り行った事への反発であり(星川は道教を信仰していたとされる)、多くの将校が参加し上杉も一度は死を覚悟した。だが、岩月の後継者である摂津政景ら太田騎士団が上杉派に味方した事もあり、いずれも失敗に終わった。しかも、この事件は星川軍の内部分裂を世間に知らしめ、東京政府はこれを機に星川討滅を企図するようになった。星川家を守るために良かれと思った「義挙」が、結果として星川家の滅亡を招く事になった。

 大宮決戦が勃発し、いよいよ星川家が存亡の危機に立たされるに及んで、漸く上杉と和解。星川軍人の誇りを胸に、圧倒的劣勢下で東京軍に立ち向かい戦死。絶命して倒れる時ですら、敵に背中を向けなかったという。

 なお、「上杉から不遇な扱いをされ続けた」という通説は、笹川本人の証言に依拠する所が大きく、上杉暗殺を正当化するための後付けではないかという説もある。対する上杉は、「わたくしが孝和様にして差し上げた事は、全て愛情表現」と語っており、体罰・虐待・侮辱といった嫌疑には当たらないとしている。このように笹川孝和という忠臣の存在は、星川初の人望の高さを端的に証明する一方で、軍内の派閥対立を解消できなかったというカリスマ的支配の限界をも示している。

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