日共時代には改革派(遠野衛グループ)の武官として知られ、人員の縮小と装備の近代化による軍の効率化を主張した(高瀬川軍縮)。しかし、こうした姿勢は東京の守旧的な上層部に嫌われ、反乱鎮圧に伴う招集では大宮旅団に派遣される事が多かった。
大軍を効率的に指揮する組織運営に長け、第一次出羽討伐では、当時としては類例のない大軍を、悪路であったにも拘らず長距離を移動させる事に成功させている(鉄道省線は長年の放置により荒廃していた)。清水賢一郎率いる農民反乱に対して、大兵力を駆使するして農村を焼き討ちする徹底的な掃滅作戦を想定していたが、農本主義的な大宮旅団は農村焼き討ちを躊躇い、山形県に到着しても一向に攻撃を開始しようとしない(これは星川初の指示)。清水も神前寺鳥海の提案した焦土戦法を採用せず、結果として両軍は正面から衝突することとなった。このため高瀬川自らが敵陣に突出し、清水本人を含む反乱軍との白兵戦を繰り広げた。その際、農民を守るため最前線に立つ清水に感銘を受け、反乱軍への残虐行為を避けた事もあり、以後「出羽最高の勇者」と称されるようになった(出羽各所に銅像が立っている)。
当時、大宮旅団では改革派の星川初農務人民委員長に対する個人崇拝の風潮が広がっていた。当初高瀬川は彼女の能力に対し懐疑的であったが、自己の栄達のために軍を酷使する他の日共官僚とは一線を画す存在である事を知り、日共政府より星川グループへの忠誠心を抱くようになる。遠野司令官は高瀬川の変心を一応察知してはいたが、彼女自身も星川の改革開放政策(市場経済導入)に理解を示していたため、これをとがめる事はなかった。
その後、大宮旅団を星川率いる独立軍閥に成長させるべく工作するが、未来30(光復元)年の中国天安門事件に伴う反動で失脚し、再び出羽出兵を命じられる。しかし、山形侵攻直後に小惑星が東京郊外に衝突し、これに乗じて星川が日共政府に反旗を翻すと、高瀬川もこれに従い、農民反乱の参謀である神前寺との和睦を担当した。
なお、日共時代の高瀬川の軍歴について、星川政府の公文書では「七月革命の直前に、参謀本部から大宮旅団に転属した」とされているが、近年では、早くから大宮旅団参謀長に異動していたとの説が有力になりつつある。この立場を採る論者は、以下のような主張をしている。
文献によっては、高瀬川が星川初と行動を共にしているのが七月革命直前からとなっているものがあるが、これは星川内部において反軍部的な傾向の ある文治派(上杉など)、もしくは七月革命以降に軍の主力となる新参将校(小田皐月など)が政治的工作を働いた結果であるとされる。
文治派のねらいは、高瀬川ら古参将校の功績を巧妙に隠蔽し、七月革命以前の軍事的功績がすべて星川初個人のものであったとして個人崇拝を強化すると同時に軍を牽制する事であると推測され、一方で新参将校のねらいは、古参派を過少に評価する事で星川軍内部における新参派の発言力を相対的に強化する事であると考えられる。
七月革命で日共体制が崩壊すると、星川は次の天下を巡って日本帝国東京政府と武力衝突した(第一次埼京戦争)。高瀬川は一方面を担当して東京軍の浸透を防ぐが、中華ソビエト共和国などを除く国際社会の多くが日本帝国を列島における正統政府と承認したため、東京への帰順を余儀なくされる(星川体制に不満を抱く軍人をまとめて引き抜くという意図もあった)。
高瀬川は星川のもとを去る際に、「東京には決して星川を攻撃させない」との言葉を残している。この言葉通り、埼京両政府の間には小規模な国境紛争こそあったものの、北武県(旧埼玉県)に対する大規模な軍事行動は行われなかった。しかし、光復15年に彼が退役すると、これを機に埼京関係は悪化の一途をたどり(体制引き締めのために東京との戦争を望む星川主戦派にとって、高瀬川らはむしろ邪魔な存在であった)、同年の第二次埼京戦争(岩付城の戦い)に至るのである。事態の推移を分析していた泰邦明子は、高瀬川ら星川軍歴を持つ和平派による「星川は陸軍大国ゆえ、両軍が戦闘状態に突入する事があれば、東京側の被害も甚大なものになるであろう」との発言が、かえって東京の軍拡を招くものであったと喝破している。
埼京和平の重要性を改めて認識した高瀬川は、その後も在郷軍人会内の新星川派として行動し、18年の上野戦争で星河亜紀爆殺事件が発生した際には、現役時代に構築した情報網を駆使して亜紀の生存を確認し、彼女を保護・監視するために親族の高瀬川湊を差し向けている(星川は亜紀の死を前提として東京側から多くの補償を得ていたため、その生存はしばらくの間隠匿された)。
21年の八月事変では、クーデター軍が掌握する偽東京政府の「奉勅命令」によって高齢ながらも予備役招集され、西宮堯彦総督と同盟した星川軍が待ち受ける禍津日原に出陣したが、所属部隊を率いる田中正弘将軍が星川に内応しており、戦闘に参加しないまま撤退。クーデターが鎮圧されると、葉山円明ら首謀者の死体処理という「汚れ役」を八洲隊と共に率先して引き受けた後、「老兵は消え去るのみ」を有言実行した。
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