2013年9月30日月曜日

雪花晴久

 風俗業経営者、反社会的団体関係者。数多のイデオロギーが交錯する現代日本において、特定の宗教を信じず、かといって共産主義のような確たる唯物論哲学を持つわけでもなく、ただ己の欲が望むままに激動の世を生き抜いた梟雄。

 二・二六事件(昭和11年)で天皇暗殺を企み銃殺された雪花晴政を父とし、その罪ゆえに世間の目から隠れた貧しい環境で生まれ育ったが、いずれ成り上がって社会に復讐しようと決意する。

 日本人民共和国が表向きには急進的進歩主義を標榜する一方で、実際には戦前同様の腐敗が存在する事に着目、これをビジネスチャンスと捉える。日基建委員長の改革開放政策による規制緩和に乗じて、東京市千束コミューンの新吉原遊郭を再建し(新々吉原)、軍人相手に公営売春業を展開。飢餓に苦しむ農村のみならず、更なる豊かさを求める都市住民からも就業希望者が殺到したため、開業に際して女性を誘拐するような行為には手を染めないで済んだ。事業は予想以上の成果を上げ、軍人の性犯罪率低下という効果をももたらした。遂には遠野衛司令官からも気に入られ、一夜を共に過ごす仲となった。党官僚の接待も行い、星川初とも関係を持ったという。

 当初は吉原を黙認していた日基だが、公娼制度の更なる拡大には嫌悪感を覚え、日基の政敵である樹下進博士も、規制緩和による計画経済の形骸化を懸念していた。そこで、両者は一時的に共闘して「黒社会撲滅運動」を行い、紅衛兵を使って晴久を抑制しようとしたが、日基の亡命により中途半端に終わった。

 しかし、七月革命で日共政府が崩壊すると、代わって日基が日本帝国首相に就任。彼は自由主義的政策を進める一方で、天主教倫理に反すると見なした勢力には弾圧を加え、当然ながら吉原も例外ではなかった。晴久は「マッサージ店」などと看板を変え、更に飲食・キャバレー・麻雀・パチンコなど多方面に進出するが、法的にも経済的にも次第に追い詰められ、娘の雪花晴華まで働かせる暴挙に出た。もっとも、親が親なら子も子で、彼女はむしろこの仕事を気に入ったという。しかし、様々な不穏分子が出入りするアングラ業界の中で、晴華は人間関係に苦悩し、遂には殺人未遂事件を起こしてしまう。雪花家は政府の追跡から逃れるため、天河和茂率いる日共残党と手を結ぶ。この頃、大牧実葉とも親交を持っており、やっぱり一晩やっちゃった模様。

 光復17年、日共残党は河越で星川軍に摘発され、晴久らも拘束されるが、星川と知己だった事もあり助命された(公式には内乱罪で銃殺された事になっている)。この際、星川から「私と一戦交えるならバイアグラくらい用意しときなさい」と言われて精力剤を渡され、人生で初めて感激の涙を流した。その後、晴華は苗字の読みを「ゆきばな」に変えて出自を隠し、大牧の案内で禍津日原の学校に通った。

 晴久は懲りずに東京での事業を続け、18年の上野戦争では吉原を爆撃されて大打撃を受けたものの、「人間がヒト科の動物である限り、私の仕事はなくならない」と諦めなかった。

 21年、禍津日原への店舗拡大を西宮堯彦総督に要望しに行った際、偶然にも八月事変が勃発し、天河の盟友という事情でクーデター軍に参加。当初はあまりやる気がなかったが、敵陣に星川がいるのを知ると、「河越の恩に報いる!」などと大興奮し、吉原職員を率いて進軍(武器は「護身用」ナイフ、回復アイテムとして精力剤)するが、笹川孝和将軍に股間を蹴られ撤退。クーデターが収束し、天河が総督府に降伏すると、彼に代わって日共残党の実質的指導者となったが、極左思想には関心がなかった。

 22年、八月事変で「男の友情」を結んでしまった笹川との縁で上杉橄欖襲撃事件に協力、翌年の第二次事件にも関与した。しかし、2回とも上杉本人に股間を蹴られ撤退。

 三度も去勢されそうになった経験を踏まえ、日共残党の集会において「我が党の直接行動主義は人類の繁殖に悪影響であり、自己批判すべきである」との「雪花テーゼ」を発表。これ以降、日共残党は極左テロリズム路線を放棄し、暴力団や汚職政治家と癒着する利権集団に変質して行った。凶悪なテロを繰り返した日共残党を事実上の消滅に追い込んだのは、政府でも市民でもなく、晴久の自己保身だったというのは皮肉と言うほかない。一方で自らも政界進出を目論見、諸派政党「幼女の貧乳が第一」から立候補しようとするも、晴華に「胸は飾りじゃない!」と拡声器で怒鳴られて頓挫した。後に馬坂佐渡を雇ってAV監督にも挑戦しており、そのしぶとさは公安関係者をして「いつになったら雪の花(鼻)の下は折れるんだ…」と言わしめた。

 一貫して煩悩に忠実な生涯を送り、自分の五感で認知できない物事には価値を見出そうとしなかったが、必ずしも冷酷外道になりきる事はできず、情に流されて行動する事もしばしばあった。また、春画コレクターという教養人的な一面もあり、時折「人の世から罪と穢れはなくならない」などと孤独なニヒリストの本性を見せた。雪花晴久という人物に対する評価は、「人間の本質をよく分かっている」(大牧実葉)という理解、「逝くのが早過ぎた」(遠野衛)という批判、「もう少し腰が動けば天下を取れた」(星川初)という待望論などがあるが、いずれにせよ当代屈指の変態にして華麗なる悪党であった事に疑いはない。

 欲望を讃美する急進的ヒューマニズムは晴華にも受け継がれたが、彼女はより深く「美」の本質(イデア)に興味を持ち、晴久とは対照的に宗教や芸術一般にも目を向けるようになった。

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