2013年9月30日月曜日

天河和茂

 共産主義者。日本人民共和国滅亡後も、世界革命を夢見て破壊活動を繰り返した日共残党のテロリスト。

 大牧実葉・葉山円明らと同じ人民学校に通っていた。ある日、大牧と会話した際に宝石の知識を教えて貰い、特にラピスラズリの話に感銘を受けて「自分の子供は『瑠璃』と名付ける」と語っている。二人の談笑の様子は、大牧に病的な偏愛を抱く葉山の怒りを買い、和茂は「不純異性交遊」の現行犯として葉山に殺されかける。しかしここで、和茂は天性の弁論術を発揮して壮絶な自己批判演説を行い、葉山を圧倒する。大牧の仲介もあり、葉山は和茂を許した。以後、三人は親友となり「学級トロイカ」などと呼ばれた。

 和茂はディベートの天才であったが、口先だけで実際に暴力を振るう事はなかった。対する葉山は、人民の敵と見なした相手を平然と虐殺する「悪魔の少年兵」だが、人心を動かすコミュニケーション能力に欠けていた。この二人の長所と短所、そしてそれを補い合う関係は日共滅亡後も続いた。

 七月革命後、二人は大牧を祭り上げて日共残党を形成し、禍津日原に潜伏して東京政府の武力転覆を夢想する。遠野衛・樹下進ら旧日共政府関係者からの資金援助によって葉山・大牧が大学に入ると、学生運動によるシンパ獲得に努めた。

 樹下は徹底的にテロを煽動したが、遠野は合法的戦術による政府掌握を葉山らに提案した。これに基づき、葉山は大牧を連れて公務員を目指し、禍津日原の学校教諭に就職する。以後、日共残党は労働組合にも触手を伸ばすと共に、並行して葉山から和茂への権力移譲が行われた。和茂は禍津日原に合法アジトを置きつつ、自らは東京のみならず秩父など星川軍政地域にも進出し、武装闘争を続けた。この間、「軍紀が乱れた一部の不良党員」に強姦されて妊娠した女性を保護し、彼女を事実上の妻として出産を手伝い、生まれた娘を「瑠璃」と名付けて養子にするという一幕があった。また、吉原の脱法業界を取り仕切る雪花晴久を仲間に迎えたが、雪花は自分より遥かに年上であり、彼の豊富な人生経験と処世術に多くを学ぶ一方、その思想性のなさには不満を持っていた(晴久にとっては、欲望に従って生きる事が唯一絶対の信念であった)。

 光復17年、秩父山地から突出して深夜の河越を襲撃し、城内に収監された仲間を脱獄させようとしたが、待ち伏せしていた星川軍に敗走し、多くの同志が逮捕された(河越夜戦)。翌年、東京のメンバーと共に巻き返しを図り、下谷区で大規模テロを起こして市街戦にまで拡大させ、帝都を混乱に陥れた(上野戦争)。20年夏の七宝院学園文科館爆破事件にも関与したとされる。しかし、いずれの事件でも和茂本人はアジるだけで、自身はまともに人っ子一人殴る勇気すらなかった。民間人をなるべく殺さないようにとの指示も出してはいたが、そもそも一般市民に恐怖を与える事を目的とするテロリズムにおいて、彼の理想主義はあまりにも空想的であった。それでも、和茂の雄弁に心惹かれる者は後を絶たなかった。

 21年夏、体制内部に進出していた葉山は、樹下に背中を押されて遂にクーデターを決行。日基建首相を暗殺、皇帝を幽閉して政府を掌握した(八月事変)。一方、これを察知した西宮堯彦総督は星川軍と同盟し、東京から逃れて来た政治家・官僚・軍人らを受け入れ、禍津日原に臨時政府を樹立した(北軍)。対する葉山グループも、皇帝・首相の公文書を偽造して西宮・星川討伐を命じ、和茂を司令官、大牧を参謀に任じた。和茂は東京軍主力部隊を中心に、大牧・葉山・雪花・遠野・泰邦・田中・高瀬川各隊を糾合した大軍を率いて禍津日原に出陣した(南軍)。しかし、いざ先端が開かれると、戦闘に参加しているのは葉山・泰邦隊と一部の東京本隊だけで、それ以外の部隊はほとんど動かない。南軍諸将の多くは、皇帝・首相不在での開戦命令やその勝算に疑問を抱いており、戦意が低かったのである。それでも、緒戦は大牧の高度な軍略によって北軍を追い詰めたが、やがて彼女も十三宮聖・星川結に懐柔されて戦線を離脱してしまう。そうした中で北軍特殊部隊が政府を奪還、南軍は原隊復帰を命じられ、クーデターは失敗に終わる。葉山は死に、和茂も後を追おうとしたが総督府に捕縛された。

 和茂は革命の戦場を法廷闘争に移し、八月事変裁判を「葉山追悼演説」の舞台としてジャックすると共に、自分のようなテロリストを生み出す日本社会の疎外性を鋭く指弾した。一方で自らの身は惜しくないとして極刑大いに結構と主張したが、事実上の裁判長たる西宮総督から「そなたには生きてやり遂げるべき事が残っている。それは妻子を守り、良き家庭を築く事だ」と諭される。新たに就任した吉野菫首相が死刑廃止論者だった事も幸いし、禍津日原に終身軟禁という寛大な処置に落ち着いた。

 その後、日共残党は天河派と雪花派に分裂し、天河派は和茂と共にテロリズムから決別した。逃げ延びた雪花派も現実路線に転換し、日共残党は消滅に向かった。

 和茂は共産主義思想を平和的な方向に修正し、教育・福祉などの弱者支援事業で熱心に働き生計を立てた。更に、大牧が禍津日原第四学校に設けた特別クラスに自ら入学し、生徒として学校に通うという、日共滅亡以来の夢を漸く叶えた。
 大牧・遠野と共に葉山の生前の手記を編纂する作業に取り組んだが、23年春には大牧も世を去り、彼女の想いをも背負う事になった。

 天河和茂の尽力により、禍津日原は多種多様な労働者・市民・学生が差別なく協同できるコミュニティーとして、地方分権の模範的モデルになった。かつて共産主義の創始者達が夢見た理想社会は、英雄や革命家と称する殺人鬼ではなく、「地元の優しいおじさん」に生まれ変わった和茂によってこそ実現されたのである。

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