2014年12月10日水曜日

日基 建

池村ヒロイチ
天道顕現
―末法の神國が、その者を欲した―

 日本帝国太政大臣(国家首相)、自由党総裁。「日基建(ひもと たける)」という姓名は初見には読みづらく、しばしば「日建(にっけん)」と通称(愛称?蔑称?)される。



日共右派
 日本人民共和国の独裁政党「輝く未来」の若手エリートとして人望厚く、「日共右派」の領袖として権力を固めていた。元来は共産主義者であったが、理論学習の一環として18世紀のガリア(フランス)大革命を研究した際に、ラ ファイエットの伝記などを通して自由主義思想に感化され、日本も西欧的なdemocracyを取り入れるべきとの考えに転じた。
  • ラ ファイエット(La Fayette):名門貴族出身で、アメリカ独立戦争に参加。フイヤン修道院の指導者として、絶対王政・革命独裁・ナポレオン帝政のいずれにも反対し、伝統と民主政治の両立、国王と議会の共存に基づく「立憲君主制」を主張した。一時オーストリア亡命を余儀なくされたが後に帰国、19世紀のパリ七月革命に再び活躍しルイ フィリップを奉戴、悲願の立憲王政(但し当時は制限選挙)を成就させた。

アメリカ亡命
 心中で共産主義を放棄した日基は、「共産主義を成功させるためには、まず資本主義の発展が必要」という方便を使って、後輩の星川初らと共に社会主義市場経済の導入を主張。また親米派としてアメリカ連邦との「日米国交正常化」交渉に関与し、パシフィック旅客機「クリスタロス」号の来日イベントを実現させた。しかし、日共の合法的民主化は極めて困難との情勢判断から、米国の中央情報機関工作員と連絡を取り、国外脱出を計画していた。平壌北平(北京)に向かう途上のクリスタロス号をハイジャックし、大韓共和国中華共和国(台湾)アメリカ委任統治領琉球などを経て、米国への亡命に成功した。これと前後して天主教(基督教)に入信し、正式に極左思想から足を洗った。

反共復国
 米政府の支援を受け、「日本合州国」臨時政府日本共和党日本国民軍などの亡命者団体を次々に組織してそのリーダーとなり、人権蹂躙を続ける日共への経済制裁・武力介入を国際社会に呼号し続けた。しかし、日共政府は元化天皇を人質にし、また中華ソビエト共和国と同盟していたため、各国とも対日武力行使には消極的であった。

日本上陸作戦
 光復元年(未来30年)、情況は大きく変わった。親中派の星川初を失脚させた日共は中共からの支持を失い、更に小惑星衝突という世紀末の大災害が人類文明を襲った。情報が錯綜する中、もはや元化天皇の生死を気にしている暇はないと雄弁して大統領府・連邦議会を動かし、米軍と共に日本列島を独裁政権から解放するダウンフォール作戦を決行させた。自らも空母「マーシャル」に搭乗して日本国民軍を指揮し、関東平野に上陸侵攻するコロネット作戦を戦い抜いた。
  • 同じ頃、琉球米軍政府も吉野菫を担いで九州に上陸し(オリンピック作戦)、潜伏キリシタンなどの反体制派から協力を得て日共軍を駆逐した(西海の福音)。

七月革命
 日基は当初、新日本を欧米のような連邦共和国に革命する予定だったが、天皇制復活を熱望する右翼勢力との妥協を図り、後南朝皇族の雲母日女内親王を皇帝に戴く「日本帝国」が開闢された。その建国記念日は7月7日と定められ、19世紀ガリアのブルジョア革命にあやかって「七月革命」と名付けられた。但し、実際には7月7日以降も日共軍との戦闘は完全には終結しておらず、単に縁起の良さそうな数字を建国日に選んだのであろう。君主制導入に伴い、自らの与党たる日本共和党も「自由党」に改組された。

祖国分断
 日本帝国は東京相模(神奈川)・房総(千葉)・常陸(茨城)・宇都宮(栃木)を制圧し、次いで出羽東海地方なども新政府に服属しつつあった。しかし、中共の支援を受けて武蔵(埼玉)・前橋(群馬)を占領した星川初は、日本帝国とは別に「日本民主共和国」と称する軍事政権(星川軍閥)を樹立し、両者は武力衝突する事態となった(第一次埼京戦争)。日本列島をめぐって「第三次世界大戦」が勃発する事を危惧した米中両国は光復停戦協定を締結し、東アジアの現状維持を合意し、具体的には武力による独立勢力の併合を制限した。こうして日本国家には複数の軍閥政権が割拠し、関東も日本帝国(東京政府)と星川軍閥に分断される事になった。

自由党政権
 それから20年もの歳月において、日本帝国太政大臣(内閣総理大臣)として国創りを進め、内戦対策のため強権的な戒厳令を敷きつつも、基本的人権・臣民の権利を可能な限り保障して民主主義を尊重し、民間企業の市場競争・自由貿易による経世済民を図るなど、自由党の名に恥じない政策を断行した。20年間の中で、任期や政局上の理由により、太政大臣の地位をほかの有力議員に譲る「政権交代」もあったが、その時期においても実権は依然として日基の手にあり、他軍閥の指導者と同じく「民主的な独裁者」(人民から一定の支持を受ける強権政治)という二律背反を実現したと評される事が多い。その一方で、かつては共和制を主張していた事もあり、いずれ皇帝を廃位して自ら「日本合州国大統領」になる野望があるのではとしばしば疑われた。

信仰・希望・愛
 日共時代の日基は、酒好き・女好きのナルシストな性格で知られ、その慢心が失脚の一因となった。ところが、教会で受洗したのを機に心を入れ替えたらしく、新生日本の最高権力者として返り咲いた暁には、禁欲的で(日本国教会を樹立するほど)信心深く、腐敗とは無縁の理想的な英雄に「輪廻転生」してしまっていた。ついでに一人称も「俺」から「私」に変わった。特に皇帝を頂点とする教会神官達には(相手が年下でも)謙遜し過ぎて頭が上がらず、往時の彼を知る日共出身の官僚・軍人達は、「宗教とはこうも人を変えてしまうのか」と驚愕した。

理想主義者
 一方で、日基建の本質は全く変わっていないという見方もできる。共産主義から自由主義に、全体主義から民主主義に、そして唯物論から天主教へと、日基のイデオロギーは180度転向したように見える。しかし、彼の思想の核心である啓蒙主義国際主義、つまり「普遍的正義を全世界に広める」という根本的な使命感は堅持されている。ゆえに、反対派の一部からは未だに「コミュニスト」だと思われている。また、部下にキレやすい性格も相変わらずで、後述のように謀叛を起される一因となった。

外交
 対外的には筋金入りの親米派で、米軍がアフガンクルジスタン(イラク)を攻撃した際も真っ先に支持を表明した。自らも米軍と共に日共を撃滅した経験ゆえ、自国民を虐殺するような独裁政権に対しては、その国の領土を「侵略」してでも武力制裁を行い、自由民主主義を根付かせるべきだと考えている。このほか、大韓・台湾の反共的な為政者と親交が深く、中共や朝鮮人民共和国(北朝鮮)とは強く対立するが、改革派が実権を握る現在の中共とは関係を若干改善しつつある。

埼京防共協定
 星川軍閥とはいずれ何らかの形で決着を付けなければならないが、関東平野で全面戦争を行った場合、勝っても都市部を中心に膨大な犠牲が予想され、泥沼化すれば第三勢力に横腹を突かれ、星川初の行動次第では日本列島が焦土と化す可能性もある。日基は後輩にして宿敵たる星川との対立を棚上げし、他勢力の平定を優先するため、光復20年に埼京防共協定を締結した。

国民戦線
 翌21年、中共が朝鮮に侵攻し、光復停戦協定は破棄された。これにより、他軍閥の武力征伐が国際法的に可能な状態となった。日基は「祖国統一戦争」の開戦を宣言し、帝国を率いて岩城(福島)の泰邦清継水原(新潟)の馬坂越後守を破り、懸案だった甲斐(山梨)の七宝院夜宵との和睦も成り、遂に関西を支配する畿内軍閥との決戦に突入した。既に星川を通して、中共に畿内を支援しないよう要請してあり、山陽地方に侵攻した九州鎮台(師団)との挟撃が成れば、勝利は約束されていた。だが、側近の葉山円明北太平洋からの長距離ミサイル攻撃(イザナミ)を独断で決行し、畿内軍を壊滅させたものの大勢の民間人を巻き込み、国際社会からも不興を買う結果となってしまった。

八月事変
 畿内軍閥が降伏した今、もはや本州で日本帝国に服属していない勢力は星川軍閥だけであった(と思われていた)。一方で、イザナミ使用に関する国連安保理への弁明や、「言ノ葉学園」と称する私立学校に不穏な動きがあるという公安情報への対処に追われ、結局は葉山円明に星川との交渉を任せざるを得なくなる。葉山は日共時代に星川初と面識があり、しかもイザナミを軍事転用した張本人であるから、さすがの星川も徹底抗戦を諦め、平和的統一に合意するはずである。しかし、それは叶わなかった。共産主義者の正体を現した葉山はクーデターを決行し、同志達を率いて帝都に押し寄せたからである。

時代の慟哭、新たなる群雄の産声
 反乱軍に包囲され絶体絶命の日基、しかし悔いはなかった。七月革命時には子供だった人々も、今となっては立派な大人になった。現に日共残党から身を立てた葉山が、こうして己から天下を奪うほどの力を手に入れたように、これからも世界には、歴史を動かす面白い人材が次々と現れるであろう。
  • 「これより後の物語は、次世代の者達に託すとしよう。円明・吉野、我が後継者として相応の偉業を成し遂げよ!」
鬼ヶ原ヒレン
liyaliya
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