2013年11月12日火曜日

馬坂越後守

 水原県(旧 新潟県)を支配する北陸軍閥の指導者、後に水原県令。会津軍閥を率いる泰邦清継の盟友。馬坂佐渡の父親とされるが、実は後述のように不可思議な事情があったという。

 馬坂家は、中尊寺の荘園だった岩手県(現 盛岡県)骨寺村にルーツを持ち、そこにあった「馬坂新道」を名字の地とすると伝わる。遠野衛と同じ陸奥地方出身で、有能だったため出世が早く、日共時代には主に外交・貿易部門の役人を務めた。

 ある日の夜、サキュバスのような姿をした謎の女になぜか襲撃されるが、返り討ちにして降参させ、身元と目的を問い詰めた。すると彼女は、「私は豊穣と繁殖を司る地母神だが、苛政によって国が疲弊したため、自分に作物を奉納してくれる人も、生贄になってくれる人もいなくなってしまったので困っている」などと語り始めた。中二病全開な自己紹介に当然ながら困惑するものの、出て行けと言っても帰ってくれそうではなかったので、彼女を「佐渡」と名付けて養子にした。本人の談によれば、それから20年以上、佐渡は外見がJKのままで年を取っていないらしい。この奇妙な出会いを機に、自国民を苦しめる日共政権に疑問を抱くようになり、娘の助言を受けつつ反乱の準備を進める。

 七月革命で挙兵し、日共軍を駆逐して新潟県一帯を占領。その際、海路を抑えるため県内に侵入していた星川軍とも交戦するが、物資横流しなどを密約して撤兵させた。こうして「北陸軍閥」を形成したが、東京政府に各個撃破されるのを避けるため、泰邦清継に接近して会津軍閥(大日本皇国会津政府)と手を結ぶ。同盟担保の人質として佐渡を会津に送り、彼女は泰邦家を支える事になった。

 内政面では、水原県民の経世済民に努め、特に石油・天然ガスなどの採鉱を積極的に行なった。対外的には、会津軍閥の日本海側担当として大韓・中共・シベリアなどとの国交を模索すると共に、列島内の他軍閥とも抗争し、甲信越地方の統一を目指す七宝院夜宵と川中島に戦うなど、軍指揮官としても才能を示した。核開発にも意欲を示し、柏崎市への原子力発電所建設を目指して、ウラン・プルトニウムの確保を試みた。

 権謀術数に長け、表では会津に協力する一方、裏では東京や星川との密輸を担い、両者の中継貿易で富を得ていた。特に、県内の化石燃料や出羽沖のメタンハイドレート、更には中共からの軍需品を星川に輸出していたとされ、関東の政治的分裂を長引かせた張本人とさえ言われる。

 光復21年に清継が東京政府に帰順したため、馬坂もこれに従い、日本帝国北陸州水原県令に任命された。

 八月事変では、葉山政権に従って前橋県に侵攻し、東京方面への出陣で手薄になっている星川軍を背後から攻撃。停電に乗じて沼田・前橋を陥落させるほどの活躍をしたが、清継率いる会津軍本隊が山形攻略に手間取ったため、北武県への進軍前に終戦を迎えた。

 事変後、清継は賊軍加担の責任を取って県令を辞職したが、馬坂は「政府からの命令に従っただけ」と主張して譲らず、利権を死守した。

 「小さな戦争が大きな戦争を抑止する」というテーゼを持っており、日共時代から「日本はもう一度、戦国時代を経験したほうが良い」と語っていた。小規模な内戦・民族紛争が頻発する事で国際社会が多極化し、結果として超大国による一極支配や二極間での世界大戦を回避できると考えている。このため、自分が軍閥割拠の間で蜜を吸っている事にも罪悪感はなく、むしろ誇りに思っている。

「八百万の神がいれば、八百万回の戦争が起こる。それは実に愚かな事だが、一人の英雄のもとで、一つの平和を押し付けられるよりはマシだ」

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