1970年2月11日水曜日

日本列島

 東アジアの弧状列島。地質学的には非常に永い歴史を有するが、約4万年前に人類が到達し、縄文時代までに共通の祖先たる原日本人が形成され、渡来人との混血によって日本人・琉球人・アイヌ人の3民族に分かれた。【中略】未来30年(光復元年)の小惑星落下とこれに伴う七月革命以来、複数の国家に分裂している。

大森貝塚
羽津
しょーやんしょーやん
青珠りせ青珠りせ
東京市大森区の北方にある縄文時代後期(及び晩期)の遺跡。
 明治10年(19世紀)に発見され、縄文人の食人説が提唱されるなど、日本考古学発祥の地として知られる。貝塚は海岸に造られるから、大森に貝塚があるという事は、縄文当時はこの付近が海だった事を示している。また、貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、そうした廃棄物に感謝の念を込めてあの世に送ったり、人間を埋葬する宗教的遺跡(送り場)としての側面もあった。
 現在は、十三宮聖十三宮仁 及び東京に亡命した星川結らの暮らす自宅や、聖が神官を務める教会堂が立地している。また、仁や星河亜紀が義務教育で通った初等・中等学校も付近にある。
 繁華街や羽田空港を擁する蒲田区に比べると中途半端な都市ではあるが、縄文以来4000年の歴史を誇る神秘的な町興しを目指して頑張ろうと頑張るために頑張るべく頑張っている

禍津日原
四ノ原
東京府と武蔵県の県境、即ち日本帝国(東京政府)と日本民主共和国(星川軍閥)の国境にある隕石クレーター。
日本人民共和国時代には「外東京コミューン」と呼ばれ、強制収容所などが立地していたらしい。隕石衝突により壊滅し、民間人で現在生存が確認されているのは大牧実葉ただ一人である。また、東京を追われた日本人民解放軍(日共軍)が、宇都宮への撤退に際してこの地を強行突破し、灼熱地獄で多くの将兵が犠牲になった。
現在は東京府の特別行政区として、総督府による統治が行われている。禍津日原駅・総督府・第四学校といった施設周辺では人工緑化が行われているが、瓦礫や人骨片が手付かずのままになっている地域(危険区域)もあり、「雨降る砂漠」などと言われている。
盆地であるため、中にいる人からは周囲が山に囲まれているかのように見える。隕石衝突の熱で形成された天然ガラス(テクタイト)が多量に産出し、地質学に関心を持つ人々の一部では有名。大規模建築がないため、農村ほどではないが昼夜を問わず空が綺麗。

禍津日原旧校舎
水菜
 「禍津日原学校」構想の計画初期に建築された旧校舎。もともと仮校舎としての一時的利用を想定し、葉山円明の主導による拙速な建設工事が強行されたため、耐震・防空強度に不安が残っていた。光復20年夏まで第四学校の施設として使用されていたが、第三次埼京戦争に伴う混乱の中で焼失し、遺棄されて廃墟と化す。現在は新校舎から離れた立ち入り禁止区域にあり、「自殺した学生の幽霊」が云々といった都市伝説の地となっている。なお、建設に際して土地測量を行ったのは大牧実葉であり、この場所に思い入れがあるらしく、八月事変の戦闘では旧校舎に彼女の陣地が置かれていた。後に十三宮聖は、この地に教会堂(禍津日原教会)を建て、禍津日原で亡くなった数多の御霊を慰霊した。

御沼神田(みぬましんでん)
紅蓮つづり
武蔵県(旧 埼玉県)南東の芝川低地大宮台地から成る緑地域。行政上は大宮浦和川口各市にまたがる。
 約6000年前の温暖化による海面上昇(縄文海進)によって形成された「奥東京湾」を起源とし、海から切り離された湖になった後、近世にダムとして利用され、新田開発によって干拓され陸地となった。人民共和国時代には、中共の大躍進政策を模倣した農業集団化によって荒廃したが、星川初の近代化事業によって生産力を回復し、現在も星川共和国の第一次産業を支えている。
 古くから大宮神社など「水」に関する氷川信仰があり、近年は国教会系の十三宮家がこれらを尊重しつつ支持を広げている。
 大宮神社に隣接する寿能城は、武蔵県全域を支配する星川家の本拠地となっている。

河越城
紅蓮つづり
武蔵県中部の平山城とその城下町。武蔵野台地北東端、東の荒川と西の入間川に挟まれた流域低地に位置する。時代によって「河肥」「川越」とも書かれた。
 長禄元年(15世紀)に扇谷上杉家臣太田氏によって河越城が築かれ、16世紀に数度の争奪戦を経て小田原北条氏が統治。江戸時代に「川越藩」、明治初期に「川越県」が置かれた。
 日共時代に上杉橄欖(扇谷定子)が台頭して勢力を拡大し、星川共和国が建てられるに及んで彼女の支配が確定した。上杉は苛烈な警察官僚として有名だが、河越ではそれなりに善政を敷いているらしく市民(上杉様の奴隷)からの支持も厚い。宗教的には天台北院で知られる仏教圏だが、キリシタンである上杉の一存により近年は天主教化が著しい。
 「小江戸」と呼ばれる交通の要地で、かつては江戸城の前哨基地であり、現在も東京からの移住・亡命者を受け入れるなど関係がある。内陸型近代工業が発達。

周防大島 屋代島
池村ヒロイチ
瀬戸内海 防予諸島の主島で、周防国(山口県)の南東部に位置する。地質は花崗岩から成り、段畑で蜜柑(ミカン)栽培が行われている。歴史的にハワイとの縁が深く、屋代島からハワイへの移民が多い。
 周防・長門が畿内軍閥(大日本皇国北朝)に服属すると、屋代島も彼らに従ったが、これを良しとしない東京・九州政府(日本帝国)は奪還計画を企図し、瀬戸内海戦の契機となった。

九州島
池村ヒロイチ
池村ヒロイチ青野充
日本列島の南西にある島。
古くは「筑紫島」「鎮西」と呼ばれた。行政区分上は、古代には「西海道」、近代には「九州地方」が置かれ、日本人民共和国の「九州省」を経て、現在は日本帝国「西海州」となっている。
九州鎮台の名で知られる日本国民軍師団が駐屯するほか、多くの在日米軍も駐留している。

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