2015年6月10日水曜日

陶山聖尚

 日本国民軍九州鎮台将校、「常識派」領袖。平時は対馬守備隊所属、後に吉野内閣軍部大臣。

厳原の常識人
 七月革命の結果、吉野菫を首班とする日本帝国西海州政府が形成されると、その軍事機構たる九州鎮台に仕官。格別吉野に心酔しているわけではないのだが、一貫して上官命令厳守・反クーデターの立場を取り、大軍の指揮にも長けていたため、結果的に諫早利三と共に吉野忠誠派の筆頭と目された。

九州政変
 光復15年、江上護智斎(慶也)の叛乱に対処し、佐賀筑後八女(やめ)を占領した江上軍に対し、2000騎を率いて後背に上陸、兵站を断って大宰府侵攻を阻止した。唐津湾の決戦では諫早勢と共に、突出した吉野本隊の救援に出撃し、江上自身にも重傷を負わせ、勝敗を決定付けた。

鎮西騒動
 21年の列島全面戦争に際しては、防長から北九州に上陸した畿内軍に対し、1万数千の兵力を以て奮戦するなど多いに活躍した。しかし終戦に前後して、東京で共産主義者のクーデター(八月事変)が勃発すると、九州でも旧江上党を始めとする革新将校らが決起し、蓮池夏希(江上の娘)は関西から上京予定だった吉野を襲撃し、返す刀で八女に諫早を討った。かくして皇帝・太政大臣・州首相がいずれも不在という法的想定外の無政府状態に陥り、九州鎮台に動揺が広がる中、陶山は東京の命令が偽造・無効である事を説いて手勢1万をまとめ、忠誠派各隊と合流して蓮池軍を撃破し、江上残党を掃討した。

兵部卿
 東京で新太政大臣に就任した吉野は、クーデター鎮圧に功多き者を積極的に起用し、陸軍系の革新将校に代わり、反共的な空軍閥(青鳥閥)が勢力を拡大した。陶山も後に取り立てられ、副大臣を経て軍部大臣(国民軍長官・兵部卿)に任命された(文民統制上、形式的には現役武官の地位を退いたが、世論には九州軍閥人事と受け止められたようである)。一方で、当初はリベラルと見られていた空軍閥が、次第に急進的・好戦的な傾向を示し始めており、陶山の登用は、彼らの牽制を意図していたとも考えられる。

孤高の暗闘
 聖徳元年(光復23年)3月、陶山曰く「江上ですら理解不能な思想」に陥った空軍閥は、宥和政策を望む聖徳帝(西宮堯彦)・吉野の反対を押し切り、防共協定に反して星川共和国への侵略を開戦した。これ以後、陶山は空軍閥の暴走に面従腹背の態度を取り、表面上は埼玉出兵に賛成したが、裏では皇帝が封印列車で脱出するのを黙認(支援?)した。帝の身柄を奪われた空軍閥は、吉野を拉致して房総半島に逃れた。陶山もこれに随行し、空軍閥・反空軍閥の双方に暗殺される恐れのある吉野を警護した(空軍閥の橘立花から「ユートピア国防相」に任命されたらしいが、本人にその意識は皆無)。空軍閥は当初、吉野・陶山の支持基盤たる九州鎮台を味方にしようと企図していたが、協力を約した豊前城井川航空基地が何者かの謀略により陥落(滑走路爆破)し、その策も水泡に帰した。関東最東端に追い詰められた空軍閥は分裂し、これ以上の抗戦を無意味と判断した十三宮勇によって吉野・陶山は解放され、炎上する銚子から脱出した。十三宮勇は、真の平和構築を吉野らに託して戦死した。

帝国最後の将軍大臣
 朝廷や星川家の没落もあり、吉野・陶山は再び東京政府の権力に返り咲く事ができた。しかし、多くの仲間に裏切られたり、いいように利用されたりと悪い経験を積み過ぎた吉野は、心労が祟って精神を病み、江上一族の怨霊に振り回され、民主化どころか軍事独裁政権を妄想するなど、「もう見る影ない」暴君と化していた。他方で、こうした吉野政権の迷走に比例して倒閣運動も激化し、天下は再び腐敗と専制、大戦争の時代へと復古しかねなかった。このような困難な情勢下にあって、軍部を掌握し、吉野に諌言できる数少ない閣僚となった陶山の尽力により、戒厳令解除・解散総選挙という英断を吉野に決意させる事ができた。吉野退陣に伴い陶山も辞職、日本帝国最後の軍部大臣であった。なお、末期には精神的過労死に陥った吉野に対し、彼女と同等ないしそれ以上の苦労を重ねた陶山が平常心を保てたのは、多分に鈍感だったからである。

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