2015年2月20日金曜日

泰邦陸奥守清継

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会津軍閥の指導者。清子・明子の父。昭和陸軍の皇道派青年将校だった泰邦清明の子で、系図では松平氏の末裔と称している。

 清明の志を継ぎ、西宮堯彦親王に従って日共軍と戦う。七月革命では宇都宮決戦に参加し、更に北上して会津を占領。しかし、東京政府による女帝擁立・親王左遷に反発し、右翼勢力を結集して軍閥を形成。大日本皇国の復活を目指して若松城に臨時政府を組織し、自ら首相・陸軍大臣となり、将来的には西宮を皇帝に戴こうとした。

 それから20年間、奥羽越列藩同盟に倣った東北諸勢力の連携によって天下を狙い続けた。しかし、肝心の出羽地方が既に東京に帰順している上、「独立自尊」というスローガンは聞こえは良いが、要するに東京(米国)や星川・畿内(中共)のような大国の後ろ盾がないという意味であり、そこに日共残党が助けを求めに来たり、ロシアによる傀儡化工作が繰り返される有様であった。その結果、毎晩「私は間違っていたのか…」と自問しながら、溺愛する妻子の笑顔とツンデレに現実逃避する残念な日々を送る。

 光復15年、禍津日原に送られていた西宮の復権が進みつつある事を知り、一旦は政府帰順を考えるものの、折悪く次女の明子が外国人に襲撃される事件が起こり、「政府が移民を受け入れるからこうなるんだ!」と更に右傾化。精神的な支えだった長女の清子も少女漫画にハマり、非実在青少年の「おにいちゃんっ!」に恋文を送る始末であった。

 19年、さすがにこのまま人生を「(東京政府の下で)働きたくないでござる!」で終えるのは不味いと思い、禍津日原総督となった西宮により建てられた学校に清子を入学させ、彼女を通して中央政界の動向を探ろうとした。

 20年、埼京防共協定によって星川と和した東京は、翌年遂に日本列島の武力統一を開始するが、不運にも会津軍閥がその第一目標(一番攻め易そうな相手)にされてしまった。しかしそこは誇り高き会津武士、とりあえず徹底抗戦してみようと頑張り、前哨戦となった那須塩原の戦いでは、士気の低い結城天剣ら宇都宮旅団(主力は旧日共軍遠野派であり、東京への忠誠心が薄い)相手に善戦。だが、星川軍(小田皐月)の増援と総督軍(十三宮勇)の航空支援が始まり劣勢に転じる。時を同じくして、西宮と葉山円明による和平工作が始まり、西宮からは「岩城県令に推挙する」、葉山からは「僕と契約して国家人民党員になってよ!」と釣られる。しかし、それ以上に清子から「日本人同士が殺し合うなんて駄目だよ!拙者は優しいお父様がだぁ~い好き!」と説得されたのが相当嬉しかったらしく、若松開城を決断。西宮と葉山は、方便にも見える降伏条件を律儀に守り、約束通り清継は岩城県令に就任、同時に国家人民党に入党した。地方首長なのに中央集権論者というのは矛盾でもあるが、西宮・葉山双方に顔が利くという立場を利用し、政府・軍部における保守・革新両派の調停に努めた。この頃の彼は比較的輝いていた。

 八月事変では西宮・星川連合軍と葉山率いる東京軍(実際はクーデター勢力)が対立し、どちらに味方すべきか苦悩する。ならば運を天に任せようという事で清子に電話をかけ、彼女の態度がツンかデレかによって対応を決めようとしたが、いやちょっと待てよと冷静になる。できれば西宮に味方したいが、清明から「保身のために親を裏切った不義者」と聞かされていた星川初に協力するわけにはいかなかった。そこで、基本的には東京軍を支持しつつ、第三勢力として天下を狙うというおめでたい計画を思い付いた。具体的には、両軍が衝突する禍津日原に清子を出陣させ、自らは出羽を占領して奥羽越列藩同盟を復活(またかよ)させ、新潟の馬坂越後守と共に南下して星川を背後から討ち、西宮を皇帝、葉山を首相に祭り上げ、泰邦家が実権を掌握するという壮大な構想であった。しかし、山形長谷堂城を守る神前寺鳥海の軍略によって戦線は膠着し、他方でクーデターは予想より早く鎮圧され、会津はまたもや「官軍」の征伐を受ける羽目になった。すると今度は五稜郭で抗戦するなどと中二病的な事を言い始めたが、清子に「蝦夷地に退けば露国の干渉を受けるよ、お父さん♪」と反対されたので諦めた。

 事変後、クーデターに加担した責任を取り岩城県令を辞職するが、相変わらず優し過ぎる西宮に誘われ、禍津日原総督府に勤務。ここの学校に通う清子の姿を毎日拝めるのが相当嬉しかったらしく、「神は私を見捨てなかった!」と大はしゃぎ。しかしこの言葉は本当で、ここからが彼の本領発揮である。

 光復22年の日中軍事衝突(東亜地中海戦争)では琉球に出陣、最前線の尖閣諸島で奮戦し、星川初による和平工作の時間を稼いだ。その姿は中国人の目に、かつて金門島で紅軍と戦った父 清明の姿と重なって映り、台湾親日派からは「ニッポンのサムライ復活!」と褒め殺され、中共メディアからも「注目に値する敵将」と評された。

 内政面では、総督府の情報網を駆使して葉山亡き後の革新勢力を監視すると共に、「日共政権はクローン技術を実用化させていた」という俗説を本気で調査・研究し、失踪した樹下進による反乱を予知した。そして迎えた光復23年3月、陸奥を襲った地震津波とこれに乗じた日共軍「復活」という事態を前に、被災者救出と反乱軍討伐という絶望的な作戦に挑む。それに際し、親世代からの怨敵だった星川初・遠野衛と握手する姿が全国に放映され、絶望に暮れる国民を勇気付けた。負け戦の多かった会津軍も今回ばかりは大活躍し、日共軍の拠点である中尊寺への血路を切り開いた。

 皇帝となった西宮は臣民から充分な支持を得られず、共和元年、君主制廃止と連邦制への移行が僅差で可決。これと同時に行われた首長選挙の結果、清継は念願の奥羽州政府首相に就任する。しかし、「私を任命する権限は日本連邦大統領ではなく、日本帝国皇帝堯彦様にある」と発言し、平安京に独立国家を建てた西宮に「裁可」を求めるなど、尊皇派としての生き様を貫いた。

 清明との比較から典型的な「英雄の駄目息子」と評される事もある清継だが、「生き残る事こそが真の勝利」という右翼らしからぬ父の遺言を守り抜いた孝行者であった。
liyaliya
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